
マニエリスム 2
このような思想、創造理論が生まれたのは、盛期ルネサンスの後、ルネサンス末期だったからともいえる。
14・15世紀、フィレンツェの芸術家(知識人)は社会に参加し、それを改革しようとする人文主義の市民意識をもっていた。しかしメディチ家の専制政治が確立すると、「宮廷」の保護を受けたフィチーノたちの人文主義は、社会から離れた瞑想的生活を理想とするようになった。
ヴァザーリは「自然」を芸術の母とし、「マニエラ」と「自然」は対立していない。しかしこの時代の作品について、ミケランジェロを模倣し、不自然で型にはまった表現を繰り返しているという批判が出始めた。17世紀半ばには「自然模倣(ミメーシス)」と「様式模倣(マニエラ)」を対立させ、マニエラ優位の16世紀は堕落した様式の時代だと批判された。ラファエロの死(1520年)から自然を回復したバロックのアンニーバレ・カッラッチ(1560〜1609)が登場する1590年代までの70年ほどは「絵画の暗黒時代(マンネリズムの時代)」だとされた。
19世紀には、現実から離れた16世紀美術の多くは、堕落・疲弊したものと評価された。自然模倣を理想としてきた伝統の中で、様式模倣は堕落と捉えられた。
14・15世紀、フィレンツェの芸術家(知識人)は社会に参加し、それを改革しようとする人文主義の市民意識をもっていた。しかしメディチ家の専制政治が確立すると、「宮廷」の保護を受けたフィチーノたちの人文主義は、社会から離れた瞑想的生活を理想とするようになった。
ヴァザーリは「自然」を芸術の母とし、「マニエラ」と「自然」は対立していない。しかしこの時代の作品について、ミケランジェロを模倣し、不自然で型にはまった表現を繰り返しているという批判が出始めた。17世紀半ばには「自然模倣(ミメーシス)」と「様式模倣(マニエラ)」を対立させ、マニエラ優位の16世紀は堕落した様式の時代だと批判された。ラファエロの死(1520年)から自然を回復したバロックのアンニーバレ・カッラッチ(1560〜1609)が登場する1590年代までの70年ほどは「絵画の暗黒時代(マンネリズムの時代)」だとされた。
19世紀には、現実から離れた16世紀美術の多くは、堕落・疲弊したものと評価された。自然模倣を理想としてきた伝統の中で、様式模倣は堕落と捉えられた。
16世紀には盛期ルネサンスの成果を意味し優美を表す賞讃の言葉だったマニエラが、17世紀には型にはまった模倣という蔑称に変わってしまった。
16世紀美術の再評価を始めたのは、20世紀初めのM.ドヴォルシャック。彼はこの時代を精神的危機の時代とし、マニエリスム芸術の自然からの乖離を、現実よりも主観や幻想に価値を置く精神文化を反映していると評価した。続いてマニエラ概念の再評価、拡大解釈がおこなわれた。文明の最高期以後に現れる文化の一般的危機と、その時代特有の主観性などを文明史の普遍的現象と考えた。
(古代ギリシアでも同じような傾向がみられた)
イタリアの歴史家たちはマニエラを一回限りの時間的限定をもった現象だとして、歴史的個別性と多様性を調査する必要性を説いていた。マニエラが価値を持った16世紀の芸術を、時代の社会構造と精神文化のなかで客観的に再構築しようとした。こうした方向性をもつ研究は20世紀後半、70年代以降に活発になっている。
今日ではマニエリスムが、ルネサンスともバロックとも異なる固有の様式をもつ芸術だとされている。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
マニエリスム 3 4 5 6 7 8 1 2
16世紀美術の再評価を始めたのは、20世紀初めのM.ドヴォルシャック。彼はこの時代を精神的危機の時代とし、マニエリスム芸術の自然からの乖離を、現実よりも主観や幻想に価値を置く精神文化を反映していると評価した。続いてマニエラ概念の再評価、拡大解釈がおこなわれた。文明の最高期以後に現れる文化の一般的危機と、その時代特有の主観性などを文明史の普遍的現象と考えた。
(古代ギリシアでも同じような傾向がみられた)
イタリアの歴史家たちはマニエラを一回限りの時間的限定をもった現象だとして、歴史的個別性と多様性を調査する必要性を説いていた。マニエラが価値を持った16世紀の芸術を、時代の社会構造と精神文化のなかで客観的に再構築しようとした。こうした方向性をもつ研究は20世紀後半、70年代以降に活発になっている。
今日ではマニエリスムが、ルネサンスともバロックとも異なる固有の様式をもつ芸術だとされている。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
マニエリスム 3 4 5 6 7 8 1 2