
マニエリスム 5
15世紀末からの地理上の発見、ポルトガルとスペインによる植民地争奪、世界貿易の中心地の移動、商業中心地のイタリアからアルプス以北への移動など、ヨーロッパで権力や経済の中心が移動した。コペルニクスやガリレイなどによって宇宙観も変わったが、芸術に反映したのは17世紀になったからだった。新旧の価値が変わる時代、過渡期の文化もその影響を受けた。
1510年代に始まった宗教改革は芸術に直接大きな影響を与えた。古代末期以来西欧の精神的支柱で、中世とルネサンスの芸術制作の当事者だったローマ教皇庁を、ルターを中心とする宗教改革が襲い、それに対抗して対抗宗教改革(カトリック復興)が始まった。1545〜1563年のトレント宗教会議とその直後の時期は危機的な激変期だった。
のちに教皇パウルス4世(在位1555〜1559)となった、ピエトロ・カラッファが1542年に設置した異端審問所と異端の粛正(拷問と処刑)。「恐怖の時代」とも呼ばれるこの時期、多くの人文主義思想の書物が焼かれ、禁書となった。人文主義的知識人は「異端」の疑いをかけられることを恐れた。教皇ピウス5世(在位1566〜1572)は、中央異端審問所の所長ギズリエーリ。「最大の狂信的時代」と呼ばれ、快楽的という理由で謝肉祭の仮装も禁止された。
1510年代に始まった宗教改革は芸術に直接大きな影響を与えた。古代末期以来西欧の精神的支柱で、中世とルネサンスの芸術制作の当事者だったローマ教皇庁を、ルターを中心とする宗教改革が襲い、それに対抗して対抗宗教改革(カトリック復興)が始まった。1545〜1563年のトレント宗教会議とその直後の時期は危機的な激変期だった。
のちに教皇パウルス4世(在位1555〜1559)となった、ピエトロ・カラッファが1542年に設置した異端審問所と異端の粛正(拷問と処刑)。「恐怖の時代」とも呼ばれるこの時期、多くの人文主義思想の書物が焼かれ、禁書となった。人文主義的知識人は「異端」の疑いをかけられることを恐れた。教皇ピウス5世(在位1566〜1572)は、中央異端審問所の所長ギズリエーリ。「最大の狂信的時代」と呼ばれ、快楽的という理由で謝肉祭の仮装も禁止された。
教会と信仰の刷新を求めて、新しい修道会や同信会が作られ、神秘的幻視の能力が与えられた聖人たちが生まれた。聖カルロ・ボッロメーオ(1538〜1584)は対抗宗教改革の指導者で、彼の教会堂建築の改革、信仰の改革の書物はトレドやリヨンで版を重ねた。イグナティウス・デ・ロヨラは1540年に戦闘的な布教修道会イエズス会を創立した。彼の教則本「心霊修行(1548年)」は、キリストの贖罪と聖餐の秘跡を追体験するための瞑想の手引きで、広く流布し宗教芸術にも影響を与えた。
教皇庁が世俗化した人文主義的文化を一掃しようとした、異端審問的運動はルネサンスにとって大きな痛手となった。一方16世紀半ば以降に、旧来とは異なった新たな宗教芸術が始まった。
第一の変革として、ルターの聖画像(イコン)崇拝攻撃に対抗して、カトリックは聖画像崇拝を擁護し、布教宣伝の有力な武器とした。ルターによって攻撃された聖画像のなかの世俗的・官能的要素(とくに裸体)は徹底的に排除され、史実と教義への厳格な忠誠が求められた。教会堂に展示されるすべての芸術を監視するために、教会当事者の検問を義務づけ、違反した者への審問が強化された。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
マニエリスム 6 7 8 1 2 3 4
教皇庁が世俗化した人文主義的文化を一掃しようとした、異端審問的運動はルネサンスにとって大きな痛手となった。一方16世紀半ば以降に、旧来とは異なった新たな宗教芸術が始まった。
第一の変革として、ルターの聖画像(イコン)崇拝攻撃に対抗して、カトリックは聖画像崇拝を擁護し、布教宣伝の有力な武器とした。ルターによって攻撃された聖画像のなかの世俗的・官能的要素(とくに裸体)は徹底的に排除され、史実と教義への厳格な忠誠が求められた。教会堂に展示されるすべての芸術を監視するために、教会当事者の検問を義務づけ、違反した者への審問が強化された。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
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