
マニエリスム 4
15世紀末から16世紀半ばにかけてイタリアの都市国家は、神聖ローマ帝国皇帝とフランス王によってほとんど崩壊した。強力な君主国家となった、フランス、スペイン、オーストリアの権力抗争の舞台となったのがイタリアの都市国家だった。
16世紀半ばまでに、スペイン、オーストリア、新大陸を統治下に置く神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位1519〜1556)の汎ヨーロッパ支配が確立した。1527年のローマ劫掠で教皇庁も襲撃、掠奪され、その権威は失墜した。その後教皇クレメンス7世がミケランジェロに描かせたのが「最後の審判」。反古典主義的な構図、様式、人体表現はマニエリスム。イタリア各地からローマに集まっていた若い芸術家たちは、各地に離散した。ロッソ・フィオレンティーノはフランス王の宮廷に雇われ、チェッリーニもフランス宮廷で職を得た。フランス宮廷にイタリアの芸術が移された。
ヴェネツィアなどの例外を残して、イタリアの都市国家はカール5世に服従し、公国の位を与えられて、自治都市国家の伝統は終わった。16世紀前半にフィレンツェで生まれた芸術家たちは、共和国から絶対主義君主国への激変を体験している。
16世紀、芸術の発注は都市国家や有力市民からではなく、絶対主義君主からおこなわれた。設置されたのは公共的な空間ではなく、君主の宮廷や居城で、君主の栄光化が目的になった。
フィレンツェのシニョリーア広場に並ぶミケランジェロの「ダヴィデ」とバンディネッリの「ヘラクレスとカクス」。ダヴィデはフランス王の侵略に備えた共和国フィレンツェの防衛の意思表示だったが、ヘラクレスは強大な権力を与えられた事実上の君主メディチ家を表している。
16世紀半ばまでに、スペイン、オーストリア、新大陸を統治下に置く神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位1519〜1556)の汎ヨーロッパ支配が確立した。1527年のローマ劫掠で教皇庁も襲撃、掠奪され、その権威は失墜した。その後教皇クレメンス7世がミケランジェロに描かせたのが「最後の審判」。反古典主義的な構図、様式、人体表現はマニエリスム。イタリア各地からローマに集まっていた若い芸術家たちは、各地に離散した。ロッソ・フィオレンティーノはフランス王の宮廷に雇われ、チェッリーニもフランス宮廷で職を得た。フランス宮廷にイタリアの芸術が移された。
ヴェネツィアなどの例外を残して、イタリアの都市国家はカール5世に服従し、公国の位を与えられて、自治都市国家の伝統は終わった。16世紀前半にフィレンツェで生まれた芸術家たちは、共和国から絶対主義君主国への激変を体験している。
16世紀、芸術の発注は都市国家や有力市民からではなく、絶対主義君主からおこなわれた。設置されたのは公共的な空間ではなく、君主の宮廷や居城で、君主の栄光化が目的になった。
フィレンツェのシニョリーア広場に並ぶミケランジェロの「ダヴィデ」とバンディネッリの「ヘラクレスとカクス」。ダヴィデはフランス王の侵略に備えた共和国フィレンツェの防衛の意思表示だったが、ヘラクレスは強大な権力を与えられた事実上の君主メディチ家を表している。
ヨーロッパ諸国の宮廷は姻戚関係で結ばれ、芸術家と芸術品の交流によって国際的宮廷様式が生まれた。芸術家の基本的身分は宮廷人(廷臣)となった。芸術家は古今の学芸に通じ、学者・知識人と交流し、彼らの助言を受けて、君主やその周囲の人々の意にかなった作品を制作した。寓意を駆使し、巨匠の作品から引用し、機知に富んだ奇想(コンチェット)で作品が制作された。一般市民は対象ではなく、洗練と優美さが尊重され、優雅な官能性や耽美性が歓迎された。
芸術家は知識人として君主が主宰するアカデミーに所属し、職人の身分から解放された。発注者が変わり、設置場所やその目的も変わって、作品の主題、構図、様式なども変化した。博学な寓意が主題となり、構図や様式も複雑になった。様式は自然から離れ、既存の傑作からの引用と意味の転換がおこなわれた。
芸術作品の鑑賞は教養になった。この時代の知識人たちは芸術理論や芸術批評を書き、画家たちも博学な芸術論を発表した。寓意画のための手引きとして寓意図像範例集が出版され、チェーザレ・リーパの「イコノロギア(初版1593年)」やアルチアーティの「エンブレマータ(初版1531年)」は版を重ね、各国語に翻訳された。
基本的な教養はルネサンス人文主義、新プラトン主義で、不可視な「イデア」を尊重する傾向は維持された。しかし知識人や芸術家が現状を批判することを危険視する体制下で、それに適合しなければならなかった。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
マニエリスム 5 6 7 8 1 2 3
芸術家は知識人として君主が主宰するアカデミーに所属し、職人の身分から解放された。発注者が変わり、設置場所やその目的も変わって、作品の主題、構図、様式なども変化した。博学な寓意が主題となり、構図や様式も複雑になった。様式は自然から離れ、既存の傑作からの引用と意味の転換がおこなわれた。
芸術作品の鑑賞は教養になった。この時代の知識人たちは芸術理論や芸術批評を書き、画家たちも博学な芸術論を発表した。寓意画のための手引きとして寓意図像範例集が出版され、チェーザレ・リーパの「イコノロギア(初版1593年)」やアルチアーティの「エンブレマータ(初版1531年)」は版を重ね、各国語に翻訳された。
基本的な教養はルネサンス人文主義、新プラトン主義で、不可視な「イデア」を尊重する傾向は維持された。しかし知識人や芸術家が現状を批判することを危険視する体制下で、それに適合しなければならなかった。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
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