
マニエリスム 3
14・15世紀、ルネサンスの作品が設置されるのは、民衆が集まる場所、多くは教会堂だった。注文者は富裕な市民、修道会や同信会などの宗教集団、時に都市国家政府だった。なんらかの利害を込めた注文だったが、一般市民に訴えるために公共性をもつ主題(キリスト教)の作品が、教会堂や都市の広場に置かれた。
それは市民の精神の統合の象徴となり、都市文化の高さを示すものになった。イタリアの社会構造が小規模な自治都市国家(コムーネ)だったことによる。図像は伝承に基づいた、自然でわかりやすく共感できるもので、人々も感情移入がしやすかった。遠くからも見える壁画や巨大な彫像が作られた。
芸術家という言葉はまだなく、政府が管理する同職組合に所属する職人が制作していた。独立した市民とされるのは親方のみで、移動についても君主・政府の許可が必要だった。高度な技術を持ち、多くの徒弟や助手をかかえた工房で、注文に合わせて図像、制作期間、予算と費用を決め、顧客の注文に従って制作した。この方法で、ルネサンス芸術の普遍性、公共性、技術的な質の高さが維持された。
それは市民の精神の統合の象徴となり、都市文化の高さを示すものになった。イタリアの社会構造が小規模な自治都市国家(コムーネ)だったことによる。図像は伝承に基づいた、自然でわかりやすく共感できるもので、人々も感情移入がしやすかった。遠くからも見える壁画や巨大な彫像が作られた。
芸術家という言葉はまだなく、政府が管理する同職組合に所属する職人が制作していた。独立した市民とされるのは親方のみで、移動についても君主・政府の許可が必要だった。高度な技術を持ち、多くの徒弟や助手をかかえた工房で、注文に合わせて図像、制作期間、予算と費用を決め、顧客の注文に従って制作した。この方法で、ルネサンス芸術の普遍性、公共性、技術的な質の高さが維持された。
16世紀になると、主題や注文者としてのキリスト教(会)は共通するが(宗教改革によって教会と教義は大きく変貌する)、展示場所は君主や高位聖職者の宮殿になった。ジュリオ・ロマーノのパラッツオ・デル・テ(マントヴァ)、ヴァザーリのバラッツォ・ヴェッキオ(フィレンツェ)など。ミケランジェロはメディチ家出身の教皇クレメンス7世のために、家族礼拝堂(メディチ家礼拝堂)に代表作をを作っている。
ブロンズィーノやチェッリーニは君主の廷臣だった。ブロンズィーノの重大な仕事はコジモ1世とその家族の公的肖像画を描くことで、代表作はコジモ1世の妃の個人礼拝堂壁画と、コジモ1世がフランス王に贈ったエロティックな寓意画「愛のアレゴリー」。チェッリーニの代表作はフランス王の食卓に置かれる「塩入れ」だった。
建築や工芸も君主や門閥貴族出身の高位聖職者(教皇・枢機卿)の宮殿、あるいは宮殿を装飾するためのものだった。
世界美術大全集15 マニエリスム ルネサンス 用語集
マニエリスム 4 5 6 7 8 1 2
ブロンズィーノやチェッリーニは君主の廷臣だった。ブロンズィーノの重大な仕事はコジモ1世とその家族の公的肖像画を描くことで、代表作はコジモ1世の妃の個人礼拝堂壁画と、コジモ1世がフランス王に贈ったエロティックな寓意画「愛のアレゴリー」。チェッリーニの代表作はフランス王の食卓に置かれる「塩入れ」だった。
建築や工芸も君主や門閥貴族出身の高位聖職者(教皇・枢機卿)の宮殿、あるいは宮殿を装飾するためのものだった。
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