
東西交流 1
モンゴル帝国の出現によって大規模な人の移動が生まれた。
モンゴル遠征軍に参加した戦士のなかには、征服地で生活を始める者もいたし、征服地の有能な人材や職人は強制的に移住させられた。クビライはキプチャク草原出身の遊牧民を新しい軍団に編成して、自らの親衛隊とした。また雲南開発のために、中央アジアのムスリムやウイグル人が入植させられた。ユーラシア各地のモンゴル政権は、たがいに人材を提供しあっていた。
モンゴル軍の侵攻を避けて、多くのテュルク系遊牧民がアナトリアに移住してテュルク化が進んだ。北インドには中央アジア、イラン、アフガニスタンから多くのムスリムが流入した。
モンゴル内部の対立・抗争による移住者もいた。フレグ・ウルスからマムルーク朝へ亡命した一団や、シリア北部に移住してイスラーム化した軍団が知られている。
東西交流2 3 モンゴル国 アジア史年表
モンゴル遠征軍に参加した戦士のなかには、征服地で生活を始める者もいたし、征服地の有能な人材や職人は強制的に移住させられた。クビライはキプチャク草原出身の遊牧民を新しい軍団に編成して、自らの親衛隊とした。また雲南開発のために、中央アジアのムスリムやウイグル人が入植させられた。ユーラシア各地のモンゴル政権は、たがいに人材を提供しあっていた。
モンゴル軍の侵攻を避けて、多くのテュルク系遊牧民がアナトリアに移住してテュルク化が進んだ。北インドには中央アジア、イラン、アフガニスタンから多くのムスリムが流入した。
モンゴル内部の対立・抗争による移住者もいた。フレグ・ウルスからマムルーク朝へ亡命した一団や、シリア北部に移住してイスラーム化した軍団が知られている。
東西交流2 3 モンゴル国 アジア史年表
モンゴル帝国の各地を結ぶ駅伝制度(ジャムチ)が整備され、旅人は東西に安全に行き来できるようになった。また泉州など中国東南部の海港都市と、ペルシア湾ホルムズを中心とする西アジアの諸港を結ぶ、海上ルートも活発になった。
ウイグル商人やムスリム商人が大規模な商業活動をおこない、フレグ・ウルスと友好関係だったジェノヴア・ヴェネツィアなどの商人やビザンツ商人も参入して商業圏は地中海世界へと広がった。14世紀からのイタリア・ルネサンスは世界規模での経済発展を背景にしている。マムルーク朝のカーリミー商人も地中海、紅海、インド洋におよぶネットワークでこの商業圏に加わった。
14世紀前半、モンゴル帝国内の紛争が終わり、フレグ・ウルスがマムルーク朝に対して宥和政策をとるようになると、東アジアと北アフリカを含む経済圏が機能して、人や物、文化や情報が行き交うようになった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
ウイグル商人やムスリム商人が大規模な商業活動をおこない、フレグ・ウルスと友好関係だったジェノヴア・ヴェネツィアなどの商人やビザンツ商人も参入して商業圏は地中海世界へと広がった。14世紀からのイタリア・ルネサンスは世界規模での経済発展を背景にしている。マムルーク朝のカーリミー商人も地中海、紅海、インド洋におよぶネットワークでこの商業圏に加わった。
14世紀前半、モンゴル帝国内の紛争が終わり、フレグ・ウルスがマムルーク朝に対して宥和政策をとるようになると、東アジアと北アフリカを含む経済圏が機能して、人や物、文化や情報が行き交うようになった。
世界各国史4 中央ユーラシア史