
26 ブルネレスキの死
ランタンは8本のコリント式柱頭を持つ高さ9メートルのピラスター(付け柱)とそれを支えるバットレス、ピラスターの間に設けられた8つの窓からできている。ランタン内部には小型のドームがつくられ、その上に高さ7メートルの尖塔、さらにその上にブロンズの球と十字架が飾られている。バットレスの一つには内部に階段がつくられ、その先にあるはしごを上ると球の中に入れる。この球には小さな跳ね上げ式の窓があって地上100メートル以上の眺望が楽しめるという。他のバットレスの中は空洞にするなど軽量化が図られたが、合計500トンの大理石が必要だった。
今度も大理石を集めるのに時間がかかった。カッラーラから大理石が届き始めたのは1443年夏。イル・バダローネの失敗もあってブルネレスキはこの問題に関わるのを避けたらしい。大理石用の特殊な荷車を設計したのはチャッケリ・マネッティだった。
次に引き上げられた大理石を正確に据え付けるための起重機が必要になる。設計したのはブルネレスキだったが、組み立ての指揮をとったのはチャッケリ・マネッティだった。1445年、部材が引き上げられドームの上で組み立てられた。
今度も大理石を集めるのに時間がかかった。カッラーラから大理石が届き始めたのは1443年夏。イル・バダローネの失敗もあってブルネレスキはこの問題に関わるのを避けたらしい。大理石用の特殊な荷車を設計したのはチャッケリ・マネッティだった。
次に引き上げられた大理石を正確に据え付けるための起重機が必要になる。設計したのはブルネレスキだったが、組み立ての指揮をとったのはチャッケリ・マネッティだった。1445年、部材が引き上げられドームの上で組み立てられた。
ランタンの礎石が据えられたのは、1446年3月。その1ヶ月後ブルネレスキは短い闘病ののちに死亡した。
ブルネレスキの葬儀はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で執り行われた。埋葬場所をめぐっては議論があったが、聖ゼノビウスの次いで大聖堂に埋葬されることになった。反対派の意見も強かったらしく、南側側廊の地下に埋葬され質素な墓石が置かれた。1972年に考古学調査が入るまで忘れられていたという。墓石には「偉大なる発明の才をもつフィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ、ここに眠る」と刻まれている。大聖堂造営局はブッジャーノにデスマスクの作成を命じ、ブルネレスキの大理石像を発注している。
ブルネレスキによって、「平易で低級」な部類とされていた建築家の評価が変わり、社会的にも認知されるようになった。
フィレンツェ大聖堂建設 27 ランタンの建設
ブルネレスキの葬儀はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で執り行われた。埋葬場所をめぐっては議論があったが、聖ゼノビウスの次いで大聖堂に埋葬されることになった。反対派の意見も強かったらしく、南側側廊の地下に埋葬され質素な墓石が置かれた。1972年に考古学調査が入るまで忘れられていたという。墓石には「偉大なる発明の才をもつフィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ、ここに眠る」と刻まれている。大聖堂造営局はブッジャーノにデスマスクの作成を命じ、ブルネレスキの大理石像を発注している。
ブルネレスキによって、「平易で低級」な部類とされていた建築家の評価が変わり、社会的にも認知されるようになった。
フィレンツェ大聖堂建設 27 ランタンの建設