
22 ルッカ戦の後
その後ミラノ公がルッカに軍を派遣した。フィレンツェはミラノ軍の指揮官スフォルツァ伯を買収し、いったん退却させたがその後の戦いでフィレンツェ軍が大敗、士気は一挙に衰えた。
敗戦の責任はブルネレスキだけでなく、スケープゴードとしての「男色」に求められた。1432年、同性愛者を発見し、告発するための「夜間取締官」が設けられ、「良俗取締官」は公営売春宿に許認可を与え、それを管理した。「より重大な罪」男色を抑える効果が期待された。
その間、ミラノはジェノヴァ、シエナ、ピオンビーノを反フィレンツェ連合に引き入れていた。劣勢が明らかになったフィレンツェは休戦を申し入れ、1433年に講和条約が結ばれた。しかし、ミラノ公が死亡するまでの10年間は緊張状態が続いた。
ルッカとの戦いはフィレンツェ経済にも大きな影響を与えた。大聖堂建設に携わる石工やブルネレスキの給料は半分に削られ、1430年12月には石工40人以上が解雇された。また市内の建設計画の多くが戦費捻出のために中断され、仕事を失った芸術家たちはフィレンツェから離れていった。
敗戦の責任はブルネレスキだけでなく、スケープゴードとしての「男色」に求められた。1432年、同性愛者を発見し、告発するための「夜間取締官」が設けられ、「良俗取締官」は公営売春宿に許認可を与え、それを管理した。「より重大な罪」男色を抑える効果が期待された。
その間、ミラノはジェノヴァ、シエナ、ピオンビーノを反フィレンツェ連合に引き入れていた。劣勢が明らかになったフィレンツェは休戦を申し入れ、1433年に講和条約が結ばれた。しかし、ミラノ公が死亡するまでの10年間は緊張状態が続いた。
ルッカとの戦いはフィレンツェ経済にも大きな影響を与えた。大聖堂建設に携わる石工やブルネレスキの給料は半分に削られ、1430年12月には石工40人以上が解雇された。また市内の建設計画の多くが戦費捻出のために中断され、仕事を失った芸術家たちはフィレンツェから離れていった。
このような状況で、ブルネレスキの複数の礼拝堂の鎖で大聖堂の壁を支える、という案は採用されなかった。そのかわり、鉄のタイ・ロッドで身廊を補強することになった。1431年初め、ブルネレスキはタイ・ロッドの模型を作り、その取り付け作業を任されることになった。ひび割れが広がらないように鉄製と木製の2種類が設置されることになった。
ブルネレスキの気が進まなかったためか、設置に時間がかかり、1433年5月には委員たちが工事を急ぐように督促している。工事が終わってからもブルネレスキはタイ・ロッドが見苦しいと造営局に申し出ている。しかし、ドームの完成を急ぐ委員たちは、ブルネレスキにドーム建設に集中するよう厳命した。
フィレンツェ大聖堂建設 23 ブルネレスキ投獄
ブルネレスキの気が進まなかったためか、設置に時間がかかり、1433年5月には委員たちが工事を急ぐように督促している。工事が終わってからもブルネレスキはタイ・ロッドが見苦しいと造営局に申し出ている。しかし、ドームの完成を急ぐ委員たちは、ブルネレスキにドーム建設に集中するよう厳命した。
フィレンツェ大聖堂建設 23 ブルネレスキ投獄