
21 ルッカの水攻め
大聖堂造営局はフィレンツェのすべての軍事施設も担当していた。大聖堂建設の歴代の総監督も城壁や要塞の建設に携わっていた。
1420年代にはミラノ軍の臼砲や攻城機に対応するため、トスカナ各都市の防衛が強化された。ブルネレスキも1423年にピストイアの城壁建設に関わり、その翌年にはアルノ渓谷のマルマンティーレ要塞の建設にも携わっている。15世紀前半には大砲が武器として使われるようになって、城壁も高いものから、低いドッシリとしたものへと変わっていった。
軍事十人委員会は1430年3月ブルネレスキを派遣することにした。ブルネレスキに求められたのは、ルッカ軍を一挙に屈服させる新戦術だった。そして、彼が考えたのは水攻めだった。セルキオ川の流れを変え、ダムを作ってルッカの周りに大きな湖を作ろうとするものだった。
1420年代にはミラノ軍の臼砲や攻城機に対応するため、トスカナ各都市の防衛が強化された。ブルネレスキも1423年にピストイアの城壁建設に関わり、その翌年にはアルノ渓谷のマルマンティーレ要塞の建設にも携わっている。15世紀前半には大砲が武器として使われるようになって、城壁も高いものから、低いドッシリとしたものへと変わっていった。
軍事十人委員会は1430年3月ブルネレスキを派遣することにした。ブルネレスキに求められたのは、ルッカ軍を一挙に屈服させる新戦術だった。そして、彼が考えたのは水攻めだった。セルキオ川の流れを変え、ダムを作ってルッカの周りに大きな湖を作ろうとするものだった。
しかし、ブルネレスキには水力工学の知識がなかった。専門家のタッコラの助言を得るためにシエナを訪れているが、それだけでは不十分だった。ダムの建設は資金難のため遅々として進まず、できあがった部分にも、その強度不足を心配する声が上がっていた。ブルネレスキはそういった心配の声を無視したらしい。「愚か者や無知蒙昧の輩」の意見を聞こうとはしなかった。
ルッカ側も、そのダムの強度不足を知っていたらしい。彼らは別にダムをつくり、守備隊の1人がフィレンツェ陣内に入って、水をためていた運河を決壊させた。水はルッカの周りに湖をつくったが、フィレンツェ軍の陣地まで水没してしまった。
フィレンツェ大聖堂建設 22 ルッカ戦の後
ルッカ側も、そのダムの強度不足を知っていたらしい。彼らは別にダムをつくり、守備隊の1人がフィレンツェ陣内に入って、水をためていた運河を決壊させた。水はルッカの周りに湖をつくったが、フィレンツェ軍の陣地まで水没してしまった。
フィレンツェ大聖堂建設 22 ルッカ戦の後