
20 1429年
イル・バダローネが出港する数週間前、ブルネレスキは砂岩の切り出しを監督するために、トラッシナイアの採石場へ向かっていた。3番目の抗張力環をつくるための砂岩だった。砂岩がフィレンツェに到着し始めたのは1429年。しかしその設置には4年という、長い時間がかかってしまった。
まず、同じ1429年に身廊の東側(ドーム側)でひび割れが見つかった。イル・バダローネの失敗があっても造営局のブルネレスキに対する信頼は変わらなかった。不可能とされていたドームが迫り枠なしに造られているからだった。造営局の委員たちから相談を受けたブルネレスキは、ゴシック建築のフライング・バットレスに代わるものとして、複数の礼拝堂を側廊に増築することを提案した。礼拝堂の鎖で身廊の壁を支えようとするものだった。それは多額の費用を必要とし、すでに工事が終了している部分との整合性にも問題があった。9月になって造営局はブルネレスキに礼拝堂の模型を作るように命じている。
まず、同じ1429年に身廊の東側(ドーム側)でひび割れが見つかった。イル・バダローネの失敗があっても造営局のブルネレスキに対する信頼は変わらなかった。不可能とされていたドームが迫り枠なしに造られているからだった。造営局の委員たちから相談を受けたブルネレスキは、ゴシック建築のフライング・バットレスに代わるものとして、複数の礼拝堂を側廊に増築することを提案した。礼拝堂の鎖で身廊の壁を支えようとするものだった。それは多額の費用を必要とし、すでに工事が終了している部分との整合性にも問題があった。9月になって造営局はブルネレスキに礼拝堂の模型を作るように命じている。
そして、フィレンツェがルッカとの戦いを始めたことが、大聖堂の工事を遅らせただけでなく、フィレンツェ全体を混乱させ、疲弊させた。ルッカの支配者パオロ・グイニージがミラノと内通しているとして、フィレンツェの傭兵隊が1429年11月にルッカを攻撃した。ナポリとの戦いは1414年に終わっていた。以後10年ほど平和な時期をフィレンツェは過ごしていた。しかし1424年にはミラノとの戦いがあり、1428年にミラノと和平を結んた。翌年、小国ルッカには容易く勝てると思ったらしい。しかし、この戦いは長引き、フィレンツェでの政変も招くことになった。
フィレンツェ大聖堂建設 21 ルッカの水攻め
フィレンツェ大聖堂建設 21 ルッカの水攻め