
18 1428年春まで
1425年末、ジョヴァンニ・ダ・プラートが、ブルネレスキは1367年の模型を尊重していないと、委員たちに訴えた。そして「五分尖頭形」になっていないと、何度も苦情を申し出た。さらには、以前彼が主張していた、ドームの基部に24の窓を設けることまでもちだしている。しかし造営局は何も変更しなかった。ギベルティ派が失地回復を狙ったとも思われるが、ギベルティは最初の洗礼堂の扉が高く評価され、後に天国の門と呼ばれる東側の扉の制作に取りかかった頃だった。ギベルティはすべてに一番でなければ気が済まなくなっていたのかもしれない。
クーポラが高くなると外周が狭くなり、石工の数も少なくてすむようになった。1426年4月には25人が解雇されている。時期ははっきりしないがマネッティによると、石工たちは賃上げを求めてストライキを行なったらしい。それに対してブルネレスキは、代わりにロンバルディア人を雇い入れて工事を続けた。職を失った石工たちはブルネレスキに復職を申し入れ、それまでより安い賃金で再び雇い入れられたという。1428年の春まで、クーポラの建設は順調に進んだ。
サンタ・マリア・デル・フィオーレの外壁は大理石で覆うことが決められていた。フィレンツェ近郊では大理石が採れないため、遠くから運んでこなければならなかった。ヴェルデ・ディ・プラート(緑がかった黒大理石)、マルムム・ルベウム(赤大理石)、ビアンキ・マルミ(白大理石)の三種類が使われることになっていた。
クーポラが高くなると外周が狭くなり、石工の数も少なくてすむようになった。1426年4月には25人が解雇されている。時期ははっきりしないがマネッティによると、石工たちは賃上げを求めてストライキを行なったらしい。それに対してブルネレスキは、代わりにロンバルディア人を雇い入れて工事を続けた。職を失った石工たちはブルネレスキに復職を申し入れ、それまでより安い賃金で再び雇い入れられたという。1428年の春まで、クーポラの建設は順調に進んだ。
サンタ・マリア・デル・フィオーレの外壁は大理石で覆うことが決められていた。フィレンツェ近郊では大理石が採れないため、遠くから運んでこなければならなかった。ヴェルデ・ディ・プラート(緑がかった黒大理石)、マルムム・ルベウム(赤大理石)、ビアンキ・マルミ(白大理石)の三種類が使われることになっていた。
白大理石はドームの8本のリブに使うことになっていて、造営局は1425年6月に560トンを購入する契約を結んでいた。白大理石が採れるのはフィレンツェの北西100kmほどにあるカッラーラ近郊。採石場で加工された石材は荷車でカッラーラの町まで運ばれ、関税を支払った後、再び荷車で港町ルーニまで運ばれる。ルーニではしけに積まれ、リグリア海からアルノ河を遡ってフィレンツェに届いた。ただアルノ河は流れの速さが季節や天候で大きく変わり、浅瀬や砂の堆積物も多く水運に向いた河ではなかった。
造営局は大理石の一部を富裕な人々に墓石として売って運賃を捻出していた。運賃が高騰して大理石が不足すると、逆に墓石用の大理石の供出を命じていた。
フィレンツェ大聖堂建設 19 イル・バダローネ(怪物)
造営局は大理石の一部を富裕な人々に墓石として売って運賃を捻出していた。運賃が高騰して大理石が不足すると、逆に墓石用の大理石の供出を命じていた。

フィレンツェ大聖堂建設 19 イル・バダローネ(怪物)