
12 工事開始と労働者たち
1420年8月7日朝、大聖堂のドラムの上で大聖堂造営局から石切工、石工など労働者たちに朝食がふるまわれた。大聖堂ドーム建設の始まりだった。
工事に携わる労働者は石切り場で働く人を含めると300人。夜明けから日没まで働き、夏の労働時間は14時間におよぶこともあった。日曜日とキリスト教の祝祭日は一切の作業が禁じられていた。作業が続けられなくならないように必要な役目をする人だけは働いた。天候次第で仕事ができない日もあった。そういうときはくじ引きで5人だけが覆いの中で作業をし、残りの者は賃金をもらえないまま帰宅を命じられた。年間200日程が作業日数だった。
使う道具類(のみ、槌、T定規、こて、木槌など)は各自が自前のものを持参し、石膏板に名前を書いてもらって仕事にかかった。道具類は鍛冶屋が現場で炉を設け修理などをした。労働時間は砂時計で測られた。中世の時間は典礼時間(時課)と連動し、1時間は40分だったらしい。1分は40モメント(瞬間)。15世紀になって1時間は60分、1分は60秒が定着していった。昼食は11時から、食糧も各自が持参した。
1426年大聖堂造営局は石工が日中ドームから降りることを禁止した。そしてこの年、ブルネレスキの命で外殻と内殻の間に昼食を出す食堂が設けられた。
工事に携わる労働者は石切り場で働く人を含めると300人。夜明けから日没まで働き、夏の労働時間は14時間におよぶこともあった。日曜日とキリスト教の祝祭日は一切の作業が禁じられていた。作業が続けられなくならないように必要な役目をする人だけは働いた。天候次第で仕事ができない日もあった。そういうときはくじ引きで5人だけが覆いの中で作業をし、残りの者は賃金をもらえないまま帰宅を命じられた。年間200日程が作業日数だった。
使う道具類(のみ、槌、T定規、こて、木槌など)は各自が自前のものを持参し、石膏板に名前を書いてもらって仕事にかかった。道具類は鍛冶屋が現場で炉を設け修理などをした。労働時間は砂時計で測られた。中世の時間は典礼時間(時課)と連動し、1時間は40分だったらしい。1分は40モメント(瞬間)。15世紀になって1時間は60分、1分は60秒が定着していった。昼食は11時から、食糧も各自が持参した。
1426年大聖堂造営局は石工が日中ドームから降りることを禁止した。そしてこの年、ブルネレスキの命で外殻と内殻の間に昼食を出す食堂が設けられた。
仕事中に事故で死亡したり、働けなくなっても遺族への拠出金などは用意されてなかった。石工組合の構成員の義務は仲間の葬儀に参加することだけだった。1420年に南側アプシスの工事で2人が死亡してからは、1422年に石工の1人が転落死しただけだった。迫枠を使わない、ドーム内部が広い空間になっている現場と、長い工期を考えると奇跡的といっていいほど少ない犠牲者だった。
フィレンツェ大聖堂建設 13 荷揚げ装置
フィレンツェ大聖堂建設 13 荷揚げ装置