
10 ブルネレスキの仕様書を承認
1419年末、羊毛組合のコンソレ(頭領)たちは「円蓋建造委員会」という特別委員会を設置した。翌年4月には総監督にバッティスタ・ダントーニオが選出され、彼を補佐する8人の石工頭も選ばれた。「ドゥオーモのせむし男」と呼ばれたダントーニオは石工上がりだったため、造営主任のような役割を果たす、専門的知識を持つ二人の総監督が任命された。それがブルネレスキとギベルティだった。さらにギベルティを補佐する第4の総監督としてフィレンツェ大学でダンテを講じたこともあるジョヴァンニ・ダ・プラートも選ばれた。
この人事はブルネレスキにとって耐え難いものだったはず。洗礼堂扉のコンクールでは、共同制作を嫌ってコンクールを降りたブルネレスキだったが、今度はひたすら耐え続けることになった。 1420年さっそくジョヴァンニ・ダ・プラートはドームの設計変更を主張した。ドームの基部に24の窓を開けないと、内部が暗すぎるというものだった。しかし構造的に疑わしく、造営局はこれを無視した。これが後になってブルネレスキへの反感となっていく。
7月造営局と円蓋建造委員会はブルネレスキの模型の細部を記した仕様書を承認した。これによってブルネレスキの案が採用されたはずだが、造営局はブルネレスキに賞金200フィオリーノを支払っていない。
この人事はブルネレスキにとって耐え難いものだったはず。洗礼堂扉のコンクールでは、共同制作を嫌ってコンクールを降りたブルネレスキだったが、今度はひたすら耐え続けることになった。 1420年さっそくジョヴァンニ・ダ・プラートはドームの設計変更を主張した。ドームの基部に24の窓を開けないと、内部が暗すぎるというものだった。しかし構造的に疑わしく、造営局はこれを無視した。これが後になってブルネレスキへの反感となっていく。
7月造営局と円蓋建造委員会はブルネレスキの模型の細部を記した仕様書を承認した。これによってブルネレスキの案が採用されたはずだが、造営局はブルネレスキに賞金200フィオリーノを支払っていない。
仕様書でも細かい部分まで明確にはなっていなかった。
ドームの内殻の厚みは基部で2m、頂部で1.5m。内殻を風雨から守り、建物全体が「より大きく、盛り上がって」見えるように設計された外殻の厚みは、基部で60cm強、天窓部分で30cm強とされていた。
また内殻の高さ14mまでは石材、それから上はれんが、ないしトゥファ(多孔質の石灰岩)を積み上げることになっていた。「抗張力環」も砂岩を何重にも円環状にめぐらし、それを鉛を塗った鉄のたがで締めることも決まっていた。ドラムから30ブラッチャ(17m)までは迫枠がなくても立ち上がることを委員たちも認めていた。
しかしそれから上はまだ決まっていなかった。 ブルネレスキも仕事を進めながら細かい部分を詰めていくしかなかった。
ブラッチャは腕の長さをもとにした単位で、約58cm。
フィレンツェ大聖堂建設 11 円形から八角形に
ドームの内殻の厚みは基部で2m、頂部で1.5m。内殻を風雨から守り、建物全体が「より大きく、盛り上がって」見えるように設計された外殻の厚みは、基部で60cm強、天窓部分で30cm強とされていた。
また内殻の高さ14mまでは石材、それから上はれんが、ないしトゥファ(多孔質の石灰岩)を積み上げることになっていた。「抗張力環」も砂岩を何重にも円環状にめぐらし、それを鉛を塗った鉄のたがで締めることも決まっていた。ドラムから30ブラッチャ(17m)までは迫枠がなくても立ち上がることを委員たちも認めていた。
しかしそれから上はまだ決まっていなかった。 ブルネレスキも仕事を進めながら細かい部分を詰めていくしかなかった。
ブラッチャは腕の長さをもとにした単位で、約58cm。
フィレンツェ大聖堂建設 11 円形から八角形に