
9 その頃のブルネレスキとギベルティ
ブルネレスキはコンクールから半年ほどの間に4つの建築物の依頼を受けていた。サン・ヤーコポ・ソープラルノ教会のリドルフィ礼拝堂とサンタ・フェリチタ教会のバルバドーリ礼拝堂は、造営局を統括する羊毛組合からの依頼。サン・ロレンツォ教会の聖具室はジョヴァンニ・デ・メディチ、オスペダーレ・デッリ・インノチェンティ(孤児養育院)は絹織物組合からの依頼だった。
4件のうち3つにはクーポラがついている。ブルネレスキの工法の実験台という意味もあったらしい。
孤児養育院の建設は1419年に始められ、羊毛組合が依頼した2つの建物もあまり規模が大きくないため同じ頃にはじまったらしい。ただクーポラが残されていないため、その工法を確認することはできない。サン・ロレンツォ教会の聖具室は1422年に建設が始まっている。
これらと同時に大聖堂クーポラの建設方法を具体化していかなければならないブルネレスキは超多忙だったはず。
4件のうち3つにはクーポラがついている。ブルネレスキの工法の実験台という意味もあったらしい。
孤児養育院の建設は1419年に始められ、羊毛組合が依頼した2つの建物もあまり規模が大きくないため同じ頃にはじまったらしい。ただクーポラが残されていないため、その工法を確認することはできない。サン・ロレンツォ教会の聖具室は1422年に建設が始まっている。
これらと同時に大聖堂クーポラの建設方法を具体化していかなければならないブルネレスキは超多忙だったはず。
一方、ギベルティはフィレンツェ市内に屋敷を構え、田舎には葡萄園を持つ裕福な芸術家になっていた。サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のコンクールで優勝して以来、彼のもとには注文が殺到していた。しかしギベルティには建築家としての経験がほとんどなかった。ブルネレスキの模型は90日かけて造られたが、ギベルティの模型は4日でできあがったという。
「パトロンたちのルネサンス」(NHKブックス)によると、1410年から28年にかけて多くの彫像がそれぞれのアルテの威信をかけて作られたオルサンミケーレ聖堂の場合、資金に余裕がある有力なアルテはギベルティに制作を依頼し、それほど豊かではないアルテはドナテッロやナンニ・ディ・バンコに依頼している。結果として新様式のルネサンスを後押ししたのは後者だった。またブロンズの彫像は大理石のそれと比べて5倍の費用がかかった。
フィレンツェ大聖堂建設 10 ブルネレスキの仕様書を承認
「パトロンたちのルネサンス」(NHKブックス)によると、1410年から28年にかけて多くの彫像がそれぞれのアルテの威信をかけて作られたオルサンミケーレ聖堂の場合、資金に余裕がある有力なアルテはギベルティに制作を依頼し、それほど豊かではないアルテはドナテッロやナンニ・ディ・バンコに依頼している。結果として新様式のルネサンスを後押ししたのは後者だった。またブロンズの彫像は大理石のそれと比べて5倍の費用がかかった。
フィレンツェ大聖堂建設 10 ブルネレスキの仕様書を承認