
8 応募作の審査
コンクールが布告されて2週間後に、ブルネレスキは模型制作にとりかかった。造営局の委員たちは4人の石工頭をブルネレスキのために差し向けた。ドナテッロやナンニ・ディ・バンコも加わって90日かけて直径2メートル、高さ3.6メートルの模型が完成した。
1418年12月、12人の応募者の模型の審査が始まった。ブルネレスキの模型は注目を集め、その有効性が議論された。彼だけが迫枠を使わない方法を提示していた。
設計案を審査する委員会に対して、自分の方法が他者に盗まれるのを危惧したブルネレスキはあまり協力的ではなかったといわれる。(迫枠を使わない)「でたらめで笑止千万なことを言い張る」として議論の場から叩き出されたこともあったらしい。
この設計をめぐるやりとりのなかで、卵を立てる話がでている。これが元になって“コロンブスの卵”という言葉が生まれたとされている。
12月になって二つの候補作が残された。今度もブルネレスキとギベルティ。
1418年12月、12人の応募者の模型の審査が始まった。ブルネレスキの模型は注目を集め、その有効性が議論された。彼だけが迫枠を使わない方法を提示していた。
設計案を審査する委員会に対して、自分の方法が他者に盗まれるのを危惧したブルネレスキはあまり協力的ではなかったといわれる。(迫枠を使わない)「でたらめで笑止千万なことを言い張る」として議論の場から叩き出されたこともあったらしい。
この設計をめぐるやりとりのなかで、卵を立てる話がでている。これが元になって“コロンブスの卵”という言葉が生まれたとされている。
12月になって二つの候補作が残された。今度もブルネレスキとギベルティ。
しかし、その後1年以上の間、審議は停滞した。理由は次の3つ。
北側のアプシスのヴォールトにひび割れが見つかったこと。
総監督ジョヴァンニ・ダンブロージョが老齢のため解任されたこと。
1419年1月教皇マルティヌス5世の一行がフィレンツェを訪れ、ローマの都市改修が終わるまで20ヶ月滞在したこと。
そのため教皇の寓居を造るため、石工や大工がサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂での仕事が優先された。
フィレンツェ大聖堂建設 9 その頃のブルネレスキとギベルティ
北側のアプシスのヴォールトにひび割れが見つかったこと。
総監督ジョヴァンニ・ダンブロージョが老齢のため解任されたこと。
1419年1月教皇マルティヌス5世の一行がフィレンツェを訪れ、ローマの都市改修が終わるまで20ヶ月滞在したこと。
そのため教皇の寓居を造るため、石工や大工がサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂での仕事が優先された。
フィレンツェ大聖堂建設 9 その頃のブルネレスキとギベルティ