
4 ローマでの古代遺跡の調査1
コンクールを降りたブルネレスキはローマへ行って古代建築の調査を始めた。その頃のローマはペストによる人口の減少も回復せず、人口は2万人ほど。教皇とフィレンツェ同盟軍との戦い「八聖人の戦い(1375~77)」のときにはイギリス人傭兵によって街は荒らされていた。ヴァザーリはドナテッロも同行したとしているが、ドナテッロが始めてローマへ行ったのは1410年頃だったらしい。
ブルネレスキは中断をはさみながら15年ほどをローマで過ごした。時計や宝飾品の制作で生活費を得ながら「牛の野」となっていたサン・ピエトロ、ごみ捨て場のユピテル神殿、その他の古代遺跡を調べていった。ドーリア式、イオニア式、コリント式、それぞれの建築様式が持つ固有の比例ルールを調べていたという。
フィレンツェの学校で教えていた、レオナルド・フィボナッチの「実用幾何学」に記されていた、鏡を使った測量法も使っていたと思われる。それは対象物から少し離れた場所に垂直に鏡を立て、鏡の真ん中に対象物の先端が写る位置に観察者が立つ、というもの。右図で観察者の身長 a を鏡と観察者の間の距離 b で割った数値を、鏡と対象物の距離 c に掛けるとその高さが得られる。この方法は線遠近法と直接つながる方法でもある。
ブルネレスキは中断をはさみながら15年ほどをローマで過ごした。時計や宝飾品の制作で生活費を得ながら「牛の野」となっていたサン・ピエトロ、ごみ捨て場のユピテル神殿、その他の古代遺跡を調べていった。ドーリア式、イオニア式、コリント式、それぞれの建築様式が持つ固有の比例ルールを調べていたという。
フィレンツェの学校で教えていた、レオナルド・フィボナッチの「実用幾何学」に記されていた、鏡を使った測量法も使っていたと思われる。それは対象物から少し離れた場所に垂直に鏡を立て、鏡の真ん中に対象物の先端が写る位置に観察者が立つ、というもの。右図で観察者の身長 a を鏡と観察者の間の距離 b で割った数値を、鏡と対象物の距離 c に掛けるとその高さが得られる。この方法は線遠近法と直接つながる方法でもある。
ブルネレスキは調査結果を記号やその頃使用が禁止されていたアラビア数字などで書き留めている。著作権などの考え方などが普及していないこの頃、科学者は暗号などを使って自分の発見をライバルの目から隠していた。レオナルド・ダ・ヴィンチの鏡面文字もそのような意味に考えられてもいた。
またアラビア数字は、この頃かたちが統一されていなくて、混乱や過失を招く恐れがあるとして、フィレンツェではローマ数字の使用を商人に命じる布告が出されていた(1296)。

フィレンツェ大聖堂建設 5 ローマでの古代遺跡の調査2
またアラビア数字は、この頃かたちが統一されていなくて、混乱や過失を招く恐れがあるとして、フィレンツェではローマ数字の使用を商人に命じる布告が出されていた(1296)。

フィレンツェ大聖堂建設 5 ローマでの古代遺跡の調査2