
1 建設開始から1357年まで

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建設が始まったのは1296年。設計したのはアルノルフォ・ディ・カンビオで、ヴェッキオ宮や新城壁(1340年完成)にも携わった石工頭だった。サンタ・レパラータとサン・ミケーレ・ヴィスドミーニ両聖堂が撤去され、周辺の住宅や洗礼堂近くの墓地も移転されて敷地が整備された。
1330年代から大聖堂の建設は富裕な羊毛組合に委ねられ、同組合が大聖堂造営局を統括した。
1339年には大聖堂の南を通るアディマーリ通りの地盤が、大聖堂の偉容が際立つように掘り下げられた。
1347年秋からのペストのために多くの市民が死亡したこともあって、1355年にできていたのは西側正面と身廊の壁だけだった。1357年、フランチェスコ・タレンティの指揮で工事が再開されたとき、東側部分の計画は大きく変更され、トスカーナで最も壮麗な聖堂を目指すことになった。工事が進むに連れて計画が変更されるのは珍しいことではなかった。
この頃、各都市は壮麗な大聖堂を競って建てていた。ピサは14世紀後半に有名な斜塔、洗礼堂、墓所(カンポ・サント)を完成させていた。シエナはそれまでの聖堂の身廊を、90度回転させた新しい聖堂の袖廊とするための工事を始めたが資金が続かず中断した。
斜線が入っているのが当初の計画。工事が進んでいた身廊はそのままだが、袖廊と内陣はかなり大きくなっている。右下の四角いところはジョットの鐘楼。 下が西側正面、信者は祭壇が置かれ、太陽が昇る東に向かって祈りを捧げる。 袖廊と内陣の周りにある凹みは礼拝堂。資産を持つ一族などが、多額の寄進をして、そこに自分たち専用の礼拝堂をつくった。
フィレンツェ大聖堂建設 2 ドームの設計1366年
1330年代から大聖堂の建設は富裕な羊毛組合に委ねられ、同組合が大聖堂造営局を統括した。
1339年には大聖堂の南を通るアディマーリ通りの地盤が、大聖堂の偉容が際立つように掘り下げられた。
1347年秋からのペストのために多くの市民が死亡したこともあって、1355年にできていたのは西側正面と身廊の壁だけだった。1357年、フランチェスコ・タレンティの指揮で工事が再開されたとき、東側部分の計画は大きく変更され、トスカーナで最も壮麗な聖堂を目指すことになった。工事が進むに連れて計画が変更されるのは珍しいことではなかった。
この頃、各都市は壮麗な大聖堂を競って建てていた。ピサは14世紀後半に有名な斜塔、洗礼堂、墓所(カンポ・サント)を完成させていた。シエナはそれまでの聖堂の身廊を、90度回転させた新しい聖堂の袖廊とするための工事を始めたが資金が続かず中断した。
斜線が入っているのが当初の計画。工事が進んでいた身廊はそのままだが、袖廊と内陣はかなり大きくなっている。右下の四角いところはジョットの鐘楼。 下が西側正面、信者は祭壇が置かれ、太陽が昇る東に向かって祈りを捧げる。 袖廊と内陣の周りにある凹みは礼拝堂。資産を持つ一族などが、多額の寄進をして、そこに自分たち専用の礼拝堂をつくった。
フィレンツェ大聖堂建設 2 ドームの設計1366年