
中世の文化 年代記・戦記
中世ロシアの公式的文化は教会主導だった。キリスト教は古くからの伝統的宗教や習俗を完全に排除した訳ではなく、正教会のもとで融合していた。
文学では年代記編纂があり、編著者・写筆者の多くは修道士だった。キエフ期からおこなわれていたが、その後地方都市でも編纂された。ノヴゴロドでは早くから年代記が編まれていたが、13世紀以降もこの地方固有の年代記が書かれていた。ロストフ・スーズダリ地方では1177年に「ウラジーミル年代記集成」が編まれ、ルーシでのこの地方の主導的役割を強調している。ガーリチ・ヴォルィニ地方でも、ダニール公の時代に固有の年代記が編まれ始めた。モスクワが台頭してくると、統一国家としての全ロシア的年代記が書かれていく。
聖者伝は、モンゴル侵入期には国家と教会のために殉教した聖人の伝記が多い。14〜16世紀には禁欲的な修道院の創設者の伝記が多く、14〜15世紀には、南スラヴ伝統の「ことばの編み細工」と呼ばれる複雑な文体で聖者伝が書かれた。16世紀になると国家の統一とともに教会の統一も図られた。多くの「奇蹟行使者」の列聖がおこなわれ、府主教マカーリーのもとで2万7千ページの聖者伝集「大聖人暦」が編纂された。
ヨシフ派・自由思想家 建築・絵画
用語集 ヨーロッパ史 ロシア史
世界各国史22 ロシア史
文学では年代記編纂があり、編著者・写筆者の多くは修道士だった。キエフ期からおこなわれていたが、その後地方都市でも編纂された。ノヴゴロドでは早くから年代記が編まれていたが、13世紀以降もこの地方固有の年代記が書かれていた。ロストフ・スーズダリ地方では1177年に「ウラジーミル年代記集成」が編まれ、ルーシでのこの地方の主導的役割を強調している。ガーリチ・ヴォルィニ地方でも、ダニール公の時代に固有の年代記が編まれ始めた。モスクワが台頭してくると、統一国家としての全ロシア的年代記が書かれていく。
聖者伝は、モンゴル侵入期には国家と教会のために殉教した聖人の伝記が多い。14〜16世紀には禁欲的な修道院の創設者の伝記が多く、14〜15世紀には、南スラヴ伝統の「ことばの編み細工」と呼ばれる複雑な文体で聖者伝が書かれた。16世紀になると国家の統一とともに教会の統一も図られた。多くの「奇蹟行使者」の列聖がおこなわれ、府主教マカーリーのもとで2万7千ページの聖者伝集「大聖人暦」が編纂された。
ヨシフ派・自由思想家 建築・絵画
用語集 ヨーロッパ史 ロシア史
世界各国史22 ロシア史
教会とは関係しない作品もあった。
ポロヴェツ人との戦いを描いた「イーゴリ遠征物語」(12世紀末?)、強力な公権の必要性を唱え、公に自らの窮状を訴える従者の「嘆願」(13世紀)、モンゴル侵入時の悲劇を描いた「バトゥによるリャザン襲撃の物語」(13世紀)、ドミートリー・ドンスコイのモンゴルとの戦いを描いた「ザドンシチナ」(14世紀末)、商人のインド旅行記「三つの海の彼方への旅」(15世紀後半)なども書かれている。
15世紀後半からモスクワ国家の成長とともに政治時評的作品が現れた。モスクワに併合される直前に書かれた、自立志向を示す「ノヴゴロドの白頭巾の物語」、「モスクワ・第三のローマ」の理念を表す修道士フィロフェイの書簡、モスクワ君主の祖先がローマ皇帝だとする「ウラジーミル諸公物語」など。
とくにイヴァン雷帝期に多く書かれている。リューリク朝君主の歴史を集大成し、1万6千の挿絵がある「絵入り年代記集成」が府主教マカーリーのもとで編まれ、カザン征服を描いた「カザン・ハン国の歴史」、雷帝にオスマン帝国のスルタンの統治を推奨し、貴族を退け戦士層を重視するように説いたイヴァン・ペレスヴェートフの著作などが現れた。雷帝の統治を巡る「クールプスキー公とイヴァン雷帝の往復書簡」や教会の立場から生活や道徳の規範を示した「家庭訓」も書かれている。
ポロヴェツ人との戦いを描いた「イーゴリ遠征物語」(12世紀末?)、強力な公権の必要性を唱え、公に自らの窮状を訴える従者の「嘆願」(13世紀)、モンゴル侵入時の悲劇を描いた「バトゥによるリャザン襲撃の物語」(13世紀)、ドミートリー・ドンスコイのモンゴルとの戦いを描いた「ザドンシチナ」(14世紀末)、商人のインド旅行記「三つの海の彼方への旅」(15世紀後半)なども書かれている。
15世紀後半からモスクワ国家の成長とともに政治時評的作品が現れた。モスクワに併合される直前に書かれた、自立志向を示す「ノヴゴロドの白頭巾の物語」、「モスクワ・第三のローマ」の理念を表す修道士フィロフェイの書簡、モスクワ君主の祖先がローマ皇帝だとする「ウラジーミル諸公物語」など。
とくにイヴァン雷帝期に多く書かれている。リューリク朝君主の歴史を集大成し、1万6千の挿絵がある「絵入り年代記集成」が府主教マカーリーのもとで編まれ、カザン征服を描いた「カザン・ハン国の歴史」、雷帝にオスマン帝国のスルタンの統治を推奨し、貴族を退け戦士層を重視するように説いたイヴァン・ペレスヴェートフの著作などが現れた。雷帝の統治を巡る「クールプスキー公とイヴァン雷帝の往復書簡」や教会の立場から生活や道徳の規範を示した「家庭訓」も書かれている。