
オゴデイ 首都カラコルム建設 バトゥの西征
1235年、モンゴル高原の中央部に首都カラコルムが建設された。実務機能が整えられ、オゴデイの命令は書記局で文書化された。また財務全般の帳簿も書記局で管理された。
首班はウイグル人チンカイ、西方担当がホラズム出身のムスリム・ヤラワチ、東方はキタイ族の耶律楚材が担当した。三大属領の華北、トルキスタン(中央アジア)、イランには総督府がおかれた。カラコルムを起点とした各地への駅伝制(ジャムチ)が整備され、中央の命令は地方に伝えられ、地方の情報は中央に集められた。
東西二方面の遠征がおこなわれた。東はオゴデイの第3子クチュを総司令官とする南宋遠征。しかし開始してまもなくクチュが急死したため、統制を失って失敗に終わった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
地図 興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後 講談社
首班はウイグル人チンカイ、西方担当がホラズム出身のムスリム・ヤラワチ、東方はキタイ族の耶律楚材が担当した。三大属領の華北、トルキスタン(中央アジア)、イランには総督府がおかれた。カラコルムを起点とした各地への駅伝制(ジャムチ)が整備され、中央の命令は地方に伝えられ、地方の情報は中央に集められた。
東西二方面の遠征がおこなわれた。東はオゴデイの第3子クチュを総司令官とする南宋遠征。しかし開始してまもなくクチュが急死したため、統制を失って失敗に終わった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
地図 興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後 講談社
西はジョチ家の所領と予定されていたキプチャク草原(カザフ草原〜南ロシア草原)の平定が目的だった。総司令官はジョチの次子で、ジョチ・ウルスの当主バトゥ。副将はスベデイ、他の王家の王子(のちの皇帝グユク、モンケ)も参加した。
キプチャクと呼ばれるテュルク系遊牧集団の多くを吸収し、ヴォルガ川中流域のブルガールを落として、1237年にルーシ諸公国を征服した。ヴォルガ川下流域、カフカースに軍を戻しアス族を平定して、1240年にキエフを陥落させた。一隊はポーランドへ向かい、1241年4月、レグニツァでポーランドとドイツ騎士団の連合軍を破った。本隊はハンガリーへ進み、4月モヒー草原でハンガリー国王軍を破り、ウィーン郊外まで軍を進めた。
1242年3月、バトゥのもとにオゴデイ死去の知らせが届いた。遠征軍は兵を引いたが、バトゥはヴォルガ川下流域(サライ)に止まり、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)となった。
キプチャクと呼ばれるテュルク系遊牧集団の多くを吸収し、ヴォルガ川中流域のブルガールを落として、1237年にルーシ諸公国を征服した。ヴォルガ川下流域、カフカースに軍を戻しアス族を平定して、1240年にキエフを陥落させた。一隊はポーランドへ向かい、1241年4月、レグニツァでポーランドとドイツ騎士団の連合軍を破った。本隊はハンガリーへ進み、4月モヒー草原でハンガリー国王軍を破り、ウィーン郊外まで軍を進めた。
1242年3月、バトゥのもとにオゴデイ死去の知らせが届いた。遠征軍は兵を引いたが、バトゥはヴォルガ川下流域(サライ)に止まり、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)となった。
