
オゴデイ 金朝に遠征
チンギスの没後2年間は千人隊の大部分と遺産の大半を受け継いだ末子トルイが国政を代行した。しかし1229年のクリルタイで帝位に就いたのは、チャガタイとオッチギンの支持を得た第3子オゴデイ(太宗 在位1229〜41)だった。
オゴデイは即位後すぐに金朝殲滅作戦を始めた。チャガタイは留守を守り、右翼軍のトルイは西の京兆を落として大きく迂回して金の背後を突き、左翼軍のオッチギンは中都から黄河へゆっくりと南下した。住民たちは黄河の南・都の開封とその周辺に逃げ込んだ。金は開戦前に、流入人口による食糧危機と社会不安に陥っていた。
1232年1月、開封西南の三峯山でトルイの軍と金の主力部隊が戦い、金の主力軍15万人ほどが失われた。オゴデイの中軍はトルイ軍と呼応して黄河を渡った。三峯山の戦いで勝負がついていたので、避難民であふれる開封の自滅を待つだけで、わずかな兵を残してオゴデイとトルイは軍を北に返した。1233年、開封は陥落し、翌年金王室も滅んだ。
帰途の途中、突然トルイが死去した。オゴデイは皇帝の称号として、君主の称号として用いられていたカガン(可汗)に由来するカアンをはじめて採用した。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
地図 世界史年表・地図 吉川弘文館
オゴデイは即位後すぐに金朝殲滅作戦を始めた。チャガタイは留守を守り、右翼軍のトルイは西の京兆を落として大きく迂回して金の背後を突き、左翼軍のオッチギンは中都から黄河へゆっくりと南下した。住民たちは黄河の南・都の開封とその周辺に逃げ込んだ。金は開戦前に、流入人口による食糧危機と社会不安に陥っていた。
1232年1月、開封西南の三峯山でトルイの軍と金の主力部隊が戦い、金の主力軍15万人ほどが失われた。オゴデイの中軍はトルイ軍と呼応して黄河を渡った。三峯山の戦いで勝負がついていたので、避難民であふれる開封の自滅を待つだけで、わずかな兵を残してオゴデイとトルイは軍を北に返した。1233年、開封は陥落し、翌年金王室も滅んだ。
帰途の途中、突然トルイが死去した。オゴデイは皇帝の称号として、君主の称号として用いられていたカガン(可汗)に由来するカアンをはじめて採用した。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
地図 世界史年表・地図 吉川弘文館
