
モンケ フレグの西征1
オゴデイ、チャガタイが相次いで死去し、オゴデイの第6皇后ドレゲネの息子グユクが、1246年のクリルタイで新皇帝に選出されたが、2年後に死去した。
1251年7月、バトゥの支持を得たトルイの長男モンケが帝位に就いた(憲宗 在位1251〜59)。モンケは即位に反対したオゴデイ家、チャガタイ家のメンバーを粛清し、チャガタイ家の当主には自派のカラ・フレグを指名した。また中央政府の陣容を整え、華北、トルキスタン、イラン総督府の人事を刷新した。
モンケは次弟クビライに中国などの東方経略を任せ、3番目の弟フレグにイラン以西の経略を委任した。
フレグの当面の標的は「邪宗者」と呼ばれるイスマーイール派(二ザール派)だった。シーア派の一派イスマーイール派は、10世紀初めエジプトでファーティマ朝を建て、その後シリア、イランに勢力を伸ばしていた。11世紀末のハサネ・サッバーフはファーティマ朝から分かれて二ザール派をつくり、イラン、シリア各地の山城を拠点に、スンナ派のセルジューク朝と激しく対立していた。二ザール派はシリアに来た十字軍によって「暗殺者(アサシン)」としてヨーロッパに伝えられた。
1251年7月、バトゥの支持を得たトルイの長男モンケが帝位に就いた(憲宗 在位1251〜59)。モンケは即位に反対したオゴデイ家、チャガタイ家のメンバーを粛清し、チャガタイ家の当主には自派のカラ・フレグを指名した。また中央政府の陣容を整え、華北、トルキスタン、イラン総督府の人事を刷新した。
モンケは次弟クビライに中国などの東方経略を任せ、3番目の弟フレグにイラン以西の経略を委任した。
フレグの当面の標的は「邪宗者」と呼ばれるイスマーイール派(二ザール派)だった。シーア派の一派イスマーイール派は、10世紀初めエジプトでファーティマ朝を建て、その後シリア、イランに勢力を伸ばしていた。11世紀末のハサネ・サッバーフはファーティマ朝から分かれて二ザール派をつくり、イラン、シリア各地の山城を拠点に、スンナ派のセルジューク朝と激しく対立していた。二ザール派はシリアに来た十字軍によって「暗殺者(アサシン)」としてヨーロッパに伝えられた。
チンギス・ハンのホラズム遠征時に、教団は臣従の使者をモンゴルに送っていたが、イラン総督府による支配が始まると両者の対立が始まった。モンゴルの武将が教団の刺客に襲われるということがあり、グユクは教団への攻撃を命じていた。
1253年秋、各千人隊から若い兵を供出させ、準備を整えてフレグは出発した。フレグ軍はゆっくりと進軍し、1256年始めにアム川をわたった。教団の若い教主は臣従を表明し和解を図ったが、フレグの政略の前、11月に降伏した。
次の目標はバグダードだった。アッバース朝の首都として繁栄していたが、10世紀以降政治の実権は軍人に奪われた。カリフは「信徒の長」としてムスリムの精神的支柱であり続けていた。1258年2月、モンゴルの調略で内部分裂をおこしたバグダードは降伏した。アッバース家はエジプトに逃れ、マムルーク朝でカリフを名乗ったがその権威は失われてしまった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
フレグの西征2 モンゴル国 アジア史年表
1253年秋、各千人隊から若い兵を供出させ、準備を整えてフレグは出発した。フレグ軍はゆっくりと進軍し、1256年始めにアム川をわたった。教団の若い教主は臣従を表明し和解を図ったが、フレグの政略の前、11月に降伏した。
次の目標はバグダードだった。アッバース朝の首都として繁栄していたが、10世紀以降政治の実権は軍人に奪われた。カリフは「信徒の長」としてムスリムの精神的支柱であり続けていた。1258年2月、モンゴルの調略で内部分裂をおこしたバグダードは降伏した。アッバース家はエジプトに逃れ、マムルーク朝でカリフを名乗ったがその権威は失われてしまった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
フレグの西征2 モンゴル国 アジア史年表