
モンゴル帝国解体
クビライを継いだ孫のテムル(成宗 1294〜1307)の没後、元では後継者をめぐる争いが続き、キプチャク草原出身の親衛軍団が実権を握っていた。国庫は宮廷の乱費と放漫財政によって逼迫し、天災や疫病による農民反乱や武装勢力が割拠したことで、江南の富が失われて破綻した。
1368年、朱元璋は南京で即位して明王朝を興した。トゴン・テムル(順帝)は大都を出、大都は明軍に占領された。北へ移動した元は、華北を挟んで明と対峙したが、1386年、トグス・テムルが明軍に急襲され、逃亡中にアリク・ブケ裔のイェスデルに殺害されて、クビライの王統は途絶えた。
その後もモンゴルの支配者たちは「大元」の国号を使い続けた。イェスデルのあと、さまざまなチンギス裔が実力者に擁立されてハーン位に就いた。1408年に即位したプンヤシュリー(本雅朱里)はティムールのもとに亡命していた王族だったが、アルクタイに擁立された。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
1368年、朱元璋は南京で即位して明王朝を興した。トゴン・テムル(順帝)は大都を出、大都は明軍に占領された。北へ移動した元は、華北を挟んで明と対峙したが、1386年、トグス・テムルが明軍に急襲され、逃亡中にアリク・ブケ裔のイェスデルに殺害されて、クビライの王統は途絶えた。
その後もモンゴルの支配者たちは「大元」の国号を使い続けた。イェスデルのあと、さまざまなチンギス裔が実力者に擁立されてハーン位に就いた。1408年に即位したプンヤシュリー(本雅朱里)はティムールのもとに亡命していた王族だったが、アルクタイに擁立された。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
オイラト部のトゴンはアルクタイを倒してモンゴリア全域を抑えた。その子エセンはチンギス家との婚姻で権力を強化して、東西に勢力を広げた。東では女真族を服属させ、西はチャガタイ・ウルスの東半分モグーリスタンを制圧した。ムスリム商人を使って明との通商活動を活発にさせたが、1448年に派遣した使節の数が多すぎて、翌年土木の変が起きた。1452年エセンはハーン位に就いたが、54年にクーデタで殺害された。
1487年、ダヤン(大元)・ハーンが即位してチンギス家が復権した。ダヤンは軍を自らが支配するチャハルなどの左翼とトゥメドなどの右翼に再編して政権の安定を図った。しかし、ダヤンの傍系の孫アルタン・ハーン(トゥメド)が即位したことでチャハル家の権威は損なわれた。アルタンは明に通貢を要求して進攻し、西モンゴルやその南の青海に達する広大な領域を支配下にいれた。彼が建設したフフホタは政治・経済・文化の中心となった。また再流入したチベット仏教のモンゴリアでの中心にもなった。
1604年チャハル王家でリンダン・ハーンが即位し、モンゴル統一を目指した。それを阻止したのが女真を統一して後金国を建てたヌルハチだった。1634年、リンダンが青海遠征の途中で死去し、その子エジェイは元皇帝伝国の玉璽をヌルハチの子太宗ホンタイジ献じて、元朝は消滅した。
1487年、ダヤン(大元)・ハーンが即位してチンギス家が復権した。ダヤンは軍を自らが支配するチャハルなどの左翼とトゥメドなどの右翼に再編して政権の安定を図った。しかし、ダヤンの傍系の孫アルタン・ハーン(トゥメド)が即位したことでチャハル家の権威は損なわれた。アルタンは明に通貢を要求して進攻し、西モンゴルやその南の青海に達する広大な領域を支配下にいれた。彼が建設したフフホタは政治・経済・文化の中心となった。また再流入したチベット仏教のモンゴリアでの中心にもなった。
1604年チャハル王家でリンダン・ハーンが即位し、モンゴル統一を目指した。それを阻止したのが女真を統一して後金国を建てたヌルハチだった。1634年、リンダンが青海遠征の途中で死去し、その子エジェイは元皇帝伝国の玉璽をヌルハチの子太宗ホンタイジ献じて、元朝は消滅した。