
クビライ 経済政策
8・9世紀以来、広州(のちに泉州)を中心とする中国東南海岸に、ペルシア湾岸からのムスリム商船が来港し、居留する者も多かった。フレグ・ウルス領内出身のムスリム商人は南宋滅亡以前から泉州で貿易の管理をしていて、モンゴルと協力し、またモンゴルの政策はムスリムの利害とも合致していた。
モンゴル高原にネストリウス派のキリスト教が広まっていたが、ムスリム商人も多く来ていたらしい。チンギスの中央アジア遠征にはムスリム商人も積極的に参加して、遠征は整然と進められた。その後のイスラーム世界でのモンゴルの軍事活動でも、事情に通じたムスリム商人が、作戦計画の立案、敵情視察、降伏勧告、外交交渉、物資の調達・輸送などを担当していた。また征服地の行政・財務も担っていた。
クビライはムスリム商人の共同事業組織・オルトク(斡脱)と仏教徒ウイグル商業集団のオルトクにさまざまな特権を与え、政権の財務・経済を彼らに委ねていた。
モンゴル高原にネストリウス派のキリスト教が広まっていたが、ムスリム商人も多く来ていたらしい。チンギスの中央アジア遠征にはムスリム商人も積極的に参加して、遠征は整然と進められた。その後のイスラーム世界でのモンゴルの軍事活動でも、事情に通じたムスリム商人が、作戦計画の立案、敵情視察、降伏勧告、外交交渉、物資の調達・輸送などを担当していた。また征服地の行政・財務も担っていた。
クビライはムスリム商人の共同事業組織・オルトク(斡脱)と仏教徒ウイグル商業集団のオルトクにさまざまな特権を与え、政権の財務・経済を彼らに委ねていた。
クビライ政権の財源は、多くが商業利潤だった。農業生産物からの税収は地方で使われ、中央政府の歳入のほとんどは塩の専売と商税だった。
基準通貨は銀だったが、絶対量が不足していた。政府は塩引と呼ばれる塩の引換券を発行し、塩引は高額な紙幣として流通した。塩引の売り上げが政府収入の80%を占めたと占めたとされる。
塩引に次ぐ収入は、税率約3.3%の商取引税だった。モンゴル政権は各都市や港湾ごとに課せられていた税を廃止して、最終売却地で一度だけ支払うようにした。そのため遠距離交易が活発になり、物流が増え商税収入も増加した。商税は銀で納められ、クビライは銀をモンゴル王族たちをつなぎ止めるために大量に賜与し、王族たちはそれをオルトク商人に投資した。帝国全域に物と銀の流れが作られ、クビライのもとに巨万の富が還流するようになった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
基準通貨は銀だったが、絶対量が不足していた。政府は塩引と呼ばれる塩の引換券を発行し、塩引は高額な紙幣として流通した。塩引の売り上げが政府収入の80%を占めたと占めたとされる。
塩引に次ぐ収入は、税率約3.3%の商取引税だった。モンゴル政権は各都市や港湾ごとに課せられていた税を廃止して、最終売却地で一度だけ支払うようにした。そのため遠距離交易が活発になり、物流が増え商税収入も増加した。商税は銀で納められ、クビライは銀をモンゴル王族たちをつなぎ止めるために大量に賜与し、王族たちはそれをオルトク商人に投資した。帝国全域に物と銀の流れが作られ、クビライのもとに巨万の富が還流するようになった。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表