
クビライ 大都建設と南宋征服
クビライは開平府で即位し、モンゴル騎馬軍団の軍事力、中国の経済力と行政組織で政権を支えようとした。モンゴル草原の都として上都(夏 開平府)を定め、中国農耕地域の都として1266年に大都(冬 現在の北京 国号を大元と称したのに伴い新都は大都と命名された)の建設を命じた。
内陸都市・大都には広大な草地があり、港もあった。皇城北の巨大な湖・積水潭は通州と閘門式運河・通恵河で結ばれ、白河を通じて直沽(現在の天津)とつながっていた。改修された大運河も通州を通っていて、豊かな江南(南宋)の物資を大都へ輸送することも考えられていた。
1268年、南宋攻撃が始まった。襄陽と対岸の燓城(はんじょう)包囲作戦で、1271年に南宋の援軍を破り、マンジャニーク(回回砲)と呼ばれた投石機で城壁を壊して、1273年南宋の守備軍が降伏した。モンゴル軍は降将の先導で長江を下り、1276年に首都臨安(杭州の近く?)が無血開城、臨安を逃れた一族も79年の崖山の戦いで滅んだ。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
右図 元代の海運港 中国の歴史9 海と帝国 講談社
大清河は現在の黄河の河道 天津は付け加えています
内陸都市・大都には広大な草地があり、港もあった。皇城北の巨大な湖・積水潭は通州と閘門式運河・通恵河で結ばれ、白河を通じて直沽(現在の天津)とつながっていた。改修された大運河も通州を通っていて、豊かな江南(南宋)の物資を大都へ輸送することも考えられていた。
1268年、南宋攻撃が始まった。襄陽と対岸の燓城(はんじょう)包囲作戦で、1271年に南宋の援軍を破り、マンジャニーク(回回砲)と呼ばれた投石機で城壁を壊して、1273年南宋の守備軍が降伏した。モンゴル軍は降将の先導で長江を下り、1276年に首都臨安(杭州の近く?)が無血開城、臨安を逃れた一族も79年の崖山の戦いで滅んだ。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
右図 元代の海運港 中国の歴史9 海と帝国 講談社
大清河は現在の黄河の河道 天津は付け加えています
