
クビライ 国号・大元(元朝)
クビライは自らの宮廷にいた、チャガタイ家のバラクをアルグの後継者として送り込んだ。しかし、権力を手に入れたバラクは自立の姿勢をとった。バラクとオゴデイ家のカイドゥ、ジョチ家の新当主モンケ・テムルの代理人は、1269年夏にタラスで会って、帝国の属領マー・ワラー・アンナフルの分割を決めた。
1270年、バラクは中央アジアの遊牧集団を集め、イラン(フレグ・ウルス)を領有しようとアム川を越えた。クビライの弟フレグを継いだアバガは、ホラーサーンに進軍してバラクの軍に大勝した。その後バラクはカイドゥに殺害され、チャガタイ家はカイドゥに支配されることになった。
1271年クビライは国号を大元(元朝1271〜1368)とした。同年クビライは中央アジアの混乱を抑えるために、第4子ノムガンに大軍を与えて、チャガタイ・ウルスの本拠地アルマリクに派遣した。ホラーサーンのアバガ軍と呼応して、カイドゥのオゴデイ、チャガタイ両家を挟撃しようとした。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
1270年、バラクは中央アジアの遊牧集団を集め、イラン(フレグ・ウルス)を領有しようとアム川を越えた。クビライの弟フレグを継いだアバガは、ホラーサーンに進軍してバラクの軍に大勝した。その後バラクはカイドゥに殺害され、チャガタイ家はカイドゥに支配されることになった。
1271年クビライは国号を大元(元朝1271〜1368)とした。同年クビライは中央アジアの混乱を抑えるために、第4子ノムガンに大軍を与えて、チャガタイ・ウルスの本拠地アルマリクに派遣した。ホラーサーンのアバガ軍と呼応して、カイドゥのオゴデイ、チャガタイ両家を挟撃しようとした。
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
しかし1276年、ノムガン軍のモンケの子シリギとアリク・ブケの子ヨブクルとメリク・テムルが反乱を起こした。クビライによって反乱は鎮圧されたが、中央アジアを直接掌握しようとする試みは失敗に終わった。
ヨブクルとメリク・テムルがカイドゥにつき、アルタイ方面のアリク・ブケ家の牧地と遊牧民はカイドゥ側に加わった。チャガタイ家ではカイドゥの後見でバラクの子ドゥアが当主となり、アルタイ方面からマー・ワラー・アンナフルの領域にカイドゥを盟主とする「国家」が作られた。
1287年、最大の危機が訪れた。チンギスの弟、東方三王家を率いるオッチギン家の当主ナヤンが挙兵し、カイドゥも東へ軍を進めた。クビライは自ら軍を率いてナヤン軍を急襲して破り、89年クビライがカラコルムに出兵するとカイドゥの軍も退却した。1294年クビライの没後、テムル(成宗)が即位した。1300年から翌年にかけて、カイドゥの軍と元軍が戦い、カイドゥは敗走したのち死亡した。チャガタイ家のドゥアはカイドゥの子チャパルとともにテムルに臣従を誓った。1305年この和合はジョチ家、フレグ家にも歓迎されて紛争は終わった。
ヨブクルとメリク・テムルがカイドゥにつき、アルタイ方面のアリク・ブケ家の牧地と遊牧民はカイドゥ側に加わった。チャガタイ家ではカイドゥの後見でバラクの子ドゥアが当主となり、アルタイ方面からマー・ワラー・アンナフルの領域にカイドゥを盟主とする「国家」が作られた。
1287年、最大の危機が訪れた。チンギスの弟、東方三王家を率いるオッチギン家の当主ナヤンが挙兵し、カイドゥも東へ軍を進めた。クビライは自ら軍を率いてナヤン軍を急襲して破り、89年クビライがカラコルムに出兵するとカイドゥの軍も退却した。1294年クビライの没後、テムル(成宗)が即位した。1300年から翌年にかけて、カイドゥの軍と元軍が戦い、カイドゥは敗走したのち死亡した。チャガタイ家のドゥアはカイドゥの子チャパルとともにテムルに臣従を誓った。1305年この和合はジョチ家、フレグ家にも歓迎されて紛争は終わった。
