
モンケ クビライ南宋遠征
モンケに南宋征服など東方経略を委ねられたクビライは、1251年にモンゴル高原の東南端、金蓮川の草原を本拠地とした。そしてジャライル部など五投下(五大遊牧集団、ジャライル、コンギラト、イキレス、ウルウト、マングト)が、クビライのもとであらたに組織化された。
クビライはオゴデイ時代のクチュの失敗から、短期決戦を避けようとしたらしい。1252年、南宋の背後にある金銀鉱産資源が豊富な雲南の大理を落とすと、後事をスベデイの子ウリャンカダイに託して金蓮川に戻った。モンケは、開平府の造営を始めたクビライをはずし、チンギスの弟オッチギン家のタガチャルに左翼軍団の指揮を委ねて、親征することにした。しかしタガチャルが軍を引いたため、再びクビライを起用したが軍の編成中、1259年8月にモンケの中央軍が四川で戦い、モンケは陣中で急死した。
クビライは進軍して長江を渡り、雲南から北上するウリャンカダイとの会合地点・顎州を包囲した。友軍を救出して、遠征軍の最後尾を務めようとする行動に各地の諸隊が呼応した。タガチャルが率いる東方三王家の軍が合流を表明し、ウリャンカダイとの連絡が取れると、クビライは救出を副将バアトルに任せて、中都に向かった。
世界各国史4 中央ユーラシア史 地図 世界史図録 山川出版社
クビライはオゴデイ時代のクチュの失敗から、短期決戦を避けようとしたらしい。1252年、南宋の背後にある金銀鉱産資源が豊富な雲南の大理を落とすと、後事をスベデイの子ウリャンカダイに託して金蓮川に戻った。モンケは、開平府の造営を始めたクビライをはずし、チンギスの弟オッチギン家のタガチャルに左翼軍団の指揮を委ねて、親征することにした。しかしタガチャルが軍を引いたため、再びクビライを起用したが軍の編成中、1259年8月にモンケの中央軍が四川で戦い、モンケは陣中で急死した。
クビライは進軍して長江を渡り、雲南から北上するウリャンカダイとの会合地点・顎州を包囲した。友軍を救出して、遠征軍の最後尾を務めようとする行動に各地の諸隊が呼応した。タガチャルが率いる東方三王家の軍が合流を表明し、ウリャンカダイとの連絡が取れると、クビライは救出を副将バアトルに任せて、中都に向かった。
世界各国史4 中央ユーラシア史 地図 世界史図録 山川出版社
クビライは1260年春、開平府で自派のみのクリルタイを開いて即位(世祖 在位1260〜94)した。末子相続が一般的だったモンゴルでは、遠征の留守をあずかりモンケの葬儀を主宰した末弟アリク・ブケが新皇帝候補として有力だった。アリク・ブケも翌月カラコルムでクリルタイを開いて即位し、二人の皇帝がならび立つことになった。
クビライは正統性では劣っていたが、中国を抑え、東方三王家と五投下の軍を得て、軍事力・補給面で優位に立っていた。アリク・ブケはチャガタイ家の傍流アルグを当主につけ、チャガタイ領からの物資の輸送を約束させた。しかし当主になったアルグはクビライと結んでアリク・ブケと対立した。アリク・ブケはアルグを討ってチャガタイ領の本拠地を占領したが、降将を皆殺しにして人心を失い、1264年7月クビライに降伏した。
クビライは首都をカラコルムから上都(開平府)、中都(大都は中都の東北郊外)に遷し、アリク・ブケ派を処分すると、中央アジア以西の実力者、ジョチ家のベルケ、弟のフレグ、チャガタイ家のアルグに呼びかけて、1266年にあらためてクリルタイを開催することにした。しかしこの三人が相次いで死去してしまった。
モンゴル国 アジア史年表
クビライは正統性では劣っていたが、中国を抑え、東方三王家と五投下の軍を得て、軍事力・補給面で優位に立っていた。アリク・ブケはチャガタイ家の傍流アルグを当主につけ、チャガタイ領からの物資の輸送を約束させた。しかし当主になったアルグはクビライと結んでアリク・ブケと対立した。アリク・ブケはアルグを討ってチャガタイ領の本拠地を占領したが、降将を皆殺しにして人心を失い、1264年7月クビライに降伏した。
クビライは首都をカラコルムから上都(開平府)、中都(大都は中都の東北郊外)に遷し、アリク・ブケ派を処分すると、中央アジア以西の実力者、ジョチ家のベルケ、弟のフレグ、チャガタイ家のアルグに呼びかけて、1266年にあらためてクリルタイを開催することにした。しかしこの三人が相次いで死去してしまった。
モンゴル国 アジア史年表
