
フレグ・ウルス イル・ハン国
フレグ・ウルス(イル・ハン国)はフレグの没後、第2代アバガ(1265−81)がカフカース地方の領有を巡って対立していたジョチ家のベルケを破り、フレグ・ウルス領有をもくろんだチャガタイ家のバラクにホラーサーンで大勝して国家基盤を整えた。
しかし歴代の君主(イル・ハーン)には確かな財政政策がなく、軍事力を維持するためには、支配下のイラン人に頼るしかなかった。ハーン位の継承争いや有力部族長の権力争いは、国庫の枯渇と遊牧戦士の貧困を招いた。
1295年、ガザンが24歳で第7代イル・ハーンに即位したとき、国家は崩壊寸前だった。ガザンはイスラームに改宗し、「集史」の編纂で名高い宰相(ワズィール)のラシードゥッディーンの補佐を得て、改革政治を断行した。徴税制度を改革し、遊牧戦士にイクター(封邑)を授与し、モスクなどの宗教施設を建設して、モンゴルがイランの地を守るムスリム戦士であることを示した。ガザンの国家機構はハーンを中心に、軍事を司る遊牧貴族と国政を担当するワズィールがハーンを支えるものだった。ワズィールは財務・行政に携わるイラン人官僚と、社会秩序の安定のためのイスラーム宗務関係者を管轄した。
ガザンの治世は9年に満たず、弟オルジェイドが政策を引き継いだ。1335年、オルジェイドの子アブー・サイードが死去し、フレグの嫡流が途絶えると、地方政権が各地で自立するようになった。
しかし歴代の君主(イル・ハーン)には確かな財政政策がなく、軍事力を維持するためには、支配下のイラン人に頼るしかなかった。ハーン位の継承争いや有力部族長の権力争いは、国庫の枯渇と遊牧戦士の貧困を招いた。
1295年、ガザンが24歳で第7代イル・ハーンに即位したとき、国家は崩壊寸前だった。ガザンはイスラームに改宗し、「集史」の編纂で名高い宰相(ワズィール)のラシードゥッディーンの補佐を得て、改革政治を断行した。徴税制度を改革し、遊牧戦士にイクター(封邑)を授与し、モスクなどの宗教施設を建設して、モンゴルがイランの地を守るムスリム戦士であることを示した。ガザンの国家機構はハーンを中心に、軍事を司る遊牧貴族と国政を担当するワズィールがハーンを支えるものだった。ワズィールは財務・行政に携わるイラン人官僚と、社会秩序の安定のためのイスラーム宗務関係者を管轄した。
ガザンの治世は9年に満たず、弟オルジェイドが政策を引き継いだ。1335年、オルジェイドの子アブー・サイードが死去し、フレグの嫡流が途絶えると、地方政権が各地で自立するようになった。