
チンギス・ハン ホラズム・シャー朝に遠征
1217年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商団を派遣したが、国境のオトラルでスパイとして殺害され商品も没収された(オトラル事件)。チンギスは責任者の引き渡しと商品の賠償を求めたがそれも拒否された。チンギスはクリルタイ(国会)を開き、ホラズム・シャー朝への遠征を決定し、1219年に15万人の軍を率いて出発した。
ホラズム・シャー朝はセルジューク朝のテュルク系奴隷(マムルーク)が、1077年頃にホラズム総督に任命されて始まった。7代目ムハンマドの時代、パミール以西の中央アジアとアフガニスタンを版図に加えた、東方イスラーム世界の強国だった。ムスリム商人は交易ネットワークの安全と拡大を求めていて、オトラル事件を起こしたムハンマドを敵として、チンギスの遠征に参加したとされる。
1219年末にオトラルに到着したモンゴル軍は4軍に分けられた。ジョチの右翼はシル川下流のジャンド(地図ではジェンド)へ向かい、左翼軍は上流のフジャンドへ向かった。オトラルはチャガタイとオゴデイに任せ、チンギスとトルイの中軍は首都サマルカンドの西ブハラへ向かった。
地図 詳説 世界史図録 山川出版社
ホラズム・シャー朝はセルジューク朝のテュルク系奴隷(マムルーク)が、1077年頃にホラズム総督に任命されて始まった。7代目ムハンマドの時代、パミール以西の中央アジアとアフガニスタンを版図に加えた、東方イスラーム世界の強国だった。ムスリム商人は交易ネットワークの安全と拡大を求めていて、オトラル事件を起こしたムハンマドを敵として、チンギスの遠征に参加したとされる。
1219年末にオトラルに到着したモンゴル軍は4軍に分けられた。ジョチの右翼はシル川下流のジャンド(地図ではジェンド)へ向かい、左翼軍は上流のフジャンドへ向かった。オトラルはチャガタイとオゴデイに任せ、チンギスとトルイの中軍は首都サマルカンドの西ブハラへ向かった。
地図 詳説 世界史図録 山川出版社
総勢40万人とされるホラズム・シャー軍は各都市に兵を分散させ、堅固な城壁で敵の疲れを待つ作戦をとった。しかし、ムハンマドは反乱を恐れて全軍の結集はできなかったらしい。
1220年の春にチンギスはブハラ、サマルカンド、オトラルなどマー・ワラー・アンナフルの主要な部分を支配下に加えていた。
ムハンマドはイラン高原へ逃れ、チンギスはジェベとスベデイに2万の軍でその後を追わせた。ムハンマドはカスピ海の小島で病死したが、それを知らない追撃軍は1223年に、黒海の北でヨーロッパのルーシ(ロシア)諸侯連合軍と闘い破っている。
チンギス本隊はムハンマドの後継者を追ってアフガニスタンに入ったが、険しい山岳地帯のため撤退し、1225年の春にモンゴルに戻った。1226年チンギスはホラズム遠征への参加を拒んだ西夏に向かった。各都市を陥落させ、首都興慶を包囲したが、1227年陰暦8月に死去した。その3日後興慶は開城し、チンギスの遺骸はモンゴルに運ばれた。
マー・ワラー・アンナフル
アラビア語で「川(アム川)の向こうの土地」
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
1220年の春にチンギスはブハラ、サマルカンド、オトラルなどマー・ワラー・アンナフルの主要な部分を支配下に加えていた。
ムハンマドはイラン高原へ逃れ、チンギスはジェベとスベデイに2万の軍でその後を追わせた。ムハンマドはカスピ海の小島で病死したが、それを知らない追撃軍は1223年に、黒海の北でヨーロッパのルーシ(ロシア)諸侯連合軍と闘い破っている。
チンギス本隊はムハンマドの後継者を追ってアフガニスタンに入ったが、険しい山岳地帯のため撤退し、1225年の春にモンゴルに戻った。1226年チンギスはホラズム遠征への参加を拒んだ西夏に向かった。各都市を陥落させ、首都興慶を包囲したが、1227年陰暦8月に死去した。その3日後興慶は開城し、チンギスの遺骸はモンゴルに運ばれた。
マー・ワラー・アンナフル
アラビア語で「川(アム川)の向こうの土地」
世界各国史4 中央ユーラシア史
モンゴル国 アジア史年表
