
パルミジャニーノ
パルミジャニーノ(1503〜1540)
Parmigianino
本名ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ
パルマ(ミラノとボローニャの間)の画家の家系に生まれ、生地からとった縮小名詞パルミジャニーノ(パルマ出身の若い男)と呼ばれた。16世紀のパルマはヴィスコンティ家、スフォルツァ家の支配を受け、フランスに占領された後、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(在位1534〜49)に支配された。政情不安のため芸術的事業は少なく、芸術家も育たなかった。
近くの町コレッジョからパルマに来たアントニオ・アッレグリ(通称コレッジョ 1489頃〜1534)と1521年、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂でともに仕事をして多くを学んだとされる。しかし、同時に大画家コレッジョからの圧力も感じていたらしい。
1524年にパルマから10kmほどにあるフォンタネッラートの貴族の館広間に「ディアナとアクタイオン」を描いている。コレッジョが1519年頃に描いた、パルマのサン・パオロ女子修道院天井画をもとにして、天井全体が一枚の曲面鏡になっているように、童子たちの体が歪んで描かれている。
「凸面鏡の自画像(1523〜24年頃)」を描いたパルミジャニーノはローマに出た。教皇クレメンス7世は若い画家の自画像に驚き、ヴァティカーノ宮「教皇の間」に壁画を描くよう命じたとされるが、描かれていない。ヴァザーリは「天使のように美しく、ラファエロの再来のように優美」と人々の感嘆を伝えているが、3年のローマ滞在中の大きな契約は1つだけだった。ラファエロやミケランジェロの作品を知り、気質の合うロッソ・フィオレンティーノと出会っている。
世界美術大全集15 マニエリスム 人物略歴
Parmigianino
本名ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ
パルマ(ミラノとボローニャの間)の画家の家系に生まれ、生地からとった縮小名詞パルミジャニーノ(パルマ出身の若い男)と呼ばれた。16世紀のパルマはヴィスコンティ家、スフォルツァ家の支配を受け、フランスに占領された後、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(在位1534〜49)に支配された。政情不安のため芸術的事業は少なく、芸術家も育たなかった。
近くの町コレッジョからパルマに来たアントニオ・アッレグリ(通称コレッジョ 1489頃〜1534)と1521年、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂でともに仕事をして多くを学んだとされる。しかし、同時に大画家コレッジョからの圧力も感じていたらしい。
1524年にパルマから10kmほどにあるフォンタネッラートの貴族の館広間に「ディアナとアクタイオン」を描いている。コレッジョが1519年頃に描いた、パルマのサン・パオロ女子修道院天井画をもとにして、天井全体が一枚の曲面鏡になっているように、童子たちの体が歪んで描かれている。
「凸面鏡の自画像(1523〜24年頃)」を描いたパルミジャニーノはローマに出た。教皇クレメンス7世は若い画家の自画像に驚き、ヴァティカーノ宮「教皇の間」に壁画を描くよう命じたとされるが、描かれていない。ヴァザーリは「天使のように美しく、ラファエロの再来のように優美」と人々の感嘆を伝えているが、3年のローマ滞在中の大きな契約は1つだけだった。ラファエロやミケランジェロの作品を知り、気質の合うロッソ・フィオレンティーノと出会っている。
世界美術大全集15 マニエリスム 人物略歴
1527年のローマ劫掠に遭って、ローマを逃れボローニャに移っている。コレッジョが故郷パルマにいたためともされる。ボローニャでは腐食銅版画を知り、「聖ロクスと寄進者」「聖パウロの回心」「聖ヒエロニムスの幻視」「聖女カタリナの神秘の結婚」を描いている。
1530年初頭、カール5世はボローニャで教皇クレメンス7世から戴冠を受けた。パルミジャニーノは、世俗的名声を示す月桂樹と宗教上の勝利を示す棕櫚が描かれた「カール5世の寓意的肖像」を制作したが、皇帝には献上していない。教皇クレメンス7世には「薔薇の聖母」を描いて献上している。画中の地球は人文主義的世界支配を願っているとされ、ヴァザーリは50枚も模写されたと伝えている。錬金術の寓意とする説や四大元素の融合とする説もある。武力による皇帝の支配より、メディチ家出身の教皇による錬金術を含むルネサンス人文主義の保護を望んでいたともされる。
彩色法にロッソの強い影響がみられる。ベッカフーミにもみられることから、この時代の色彩のマニエラだったと考えられている。世界は仮象と捉えられ、人体は引き伸ばされた曲線で現され、視点も水平線上にはない。空間は曲がりくねりながら奥へ進み、幾何学的限定はなくなっている。
「弓をつくるキューピッド(1527〜30年頃)」では知性を表す書物が踏みつけられている、これは伝統的に愛(エロス)が知性に打ち勝つことを意味している。キューピッドの足の間に二人の子供(天使)を置くことで、男女の愛の葛藤の上に、キューピッドが勝利者として存在している。
1531年パルマに戻り、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ聖堂の装飾をおこなった。「長い首の聖母(1535年頃)」は優美なマニエラの最高傑作とされる。
1540年、37歳で死去した。原因は不明。ヴァザーリは錬金術に夢中になって健康を害したと伝えている。
1530年初頭、カール5世はボローニャで教皇クレメンス7世から戴冠を受けた。パルミジャニーノは、世俗的名声を示す月桂樹と宗教上の勝利を示す棕櫚が描かれた「カール5世の寓意的肖像」を制作したが、皇帝には献上していない。教皇クレメンス7世には「薔薇の聖母」を描いて献上している。画中の地球は人文主義的世界支配を願っているとされ、ヴァザーリは50枚も模写されたと伝えている。錬金術の寓意とする説や四大元素の融合とする説もある。武力による皇帝の支配より、メディチ家出身の教皇による錬金術を含むルネサンス人文主義の保護を望んでいたともされる。
彩色法にロッソの強い影響がみられる。ベッカフーミにもみられることから、この時代の色彩のマニエラだったと考えられている。世界は仮象と捉えられ、人体は引き伸ばされた曲線で現され、視点も水平線上にはない。空間は曲がりくねりながら奥へ進み、幾何学的限定はなくなっている。
「弓をつくるキューピッド(1527〜30年頃)」では知性を表す書物が踏みつけられている、これは伝統的に愛(エロス)が知性に打ち勝つことを意味している。キューピッドの足の間に二人の子供(天使)を置くことで、男女の愛の葛藤の上に、キューピッドが勝利者として存在している。
1531年パルマに戻り、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ聖堂の装飾をおこなった。「長い首の聖母(1535年頃)」は優美なマニエラの最高傑作とされる。
1540年、37歳で死去した。原因は不明。ヴァザーリは錬金術に夢中になって健康を害したと伝えている。