
ドナテッロ2
1430年代作とされる「受胎告知(サンタ・クローチェ聖堂)」についての記録は残されていない。明快な空間と優雅な雰囲気を持つこの作品にもドナテッロの多様な技量を見ることができる。
1430年代に台頭してきた彫刻家にルカ・デッラ・ロッビア(1399/1400〜1482)がいる。大聖堂南側聖具室入り口上にドナテッロとルカの唱歌壇は対をなして設置されている。先にルカに依託され、ドナテッロはローマから帰った1433年7月に依託されている。ルカが古代彫刻などをもとに調和のとれた構成で仕上げているのに対して、ドナテッロは乱舞するプットたちによって歓喜を表現している。
コジモが追放から帰還した1434年からドナテッロがパドヴァへ向かう1443年の間に制作されたのがサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室の彫刻装飾。ブルネレスキは不満だったらしいが、コジモとドナテッロの堅い友情のきっかけとなったとされる作品群。
1430〜50年代に制作されたブロンズ像「ダヴィデ」は古代以来、最初の裸体像。同じ作風の「アティス・アモリーノ」の解釈は定まっていない。ドナテッロと人文主義者とのつながりを示しているともされる。
1430年代に台頭してきた彫刻家にルカ・デッラ・ロッビア(1399/1400〜1482)がいる。大聖堂南側聖具室入り口上にドナテッロとルカの唱歌壇は対をなして設置されている。先にルカに依託され、ドナテッロはローマから帰った1433年7月に依託されている。ルカが古代彫刻などをもとに調和のとれた構成で仕上げているのに対して、ドナテッロは乱舞するプットたちによって歓喜を表現している。
コジモが追放から帰還した1434年からドナテッロがパドヴァへ向かう1443年の間に制作されたのがサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室の彫刻装飾。ブルネレスキは不満だったらしいが、コジモとドナテッロの堅い友情のきっかけとなったとされる作品群。
1430〜50年代に制作されたブロンズ像「ダヴィデ」は古代以来、最初の裸体像。同じ作風の「アティス・アモリーノ」の解釈は定まっていない。ドナテッロと人文主義者とのつながりを示しているともされる。
1443年ドナテッロ(57才位)はパドヴァに移り約10年滞在した。代表作はサンタントニオ聖堂の主祭壇。建築と彫刻を統合したような大作だったが、16世紀末に解体され、現在見られるのは19世紀に再構成されたもの。
その聖堂前の広場に設置されているのが1447〜53年作の「ガッタメラータ騎馬像」。ヴェネツィア元老院の依託によって制作されたヴェネツィア将軍の墓碑記念像。
1454年フィレンツェに帰国した後のドナテッロの作品には宗教的諦観が見られる。1450年代後半に制作された「ユディットとホロフェルネス」と「マグダラのマリア」。最後に未完成で残された、サン・ロレンツォ聖堂の対になったブロンズ説教壇。
1466年ドナテッロ死去、メディチ家当主ピエロの指示でサン・ロレンツォ聖堂の地下墓室、コジモ・デ・メディチの墓の側に葬られた。
ドナテッロ1 人物略歴
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1
イタリア・ルネサンスの巨匠たち8 ドナテッロ 東京書籍
その聖堂前の広場に設置されているのが1447〜53年作の「ガッタメラータ騎馬像」。ヴェネツィア元老院の依託によって制作されたヴェネツィア将軍の墓碑記念像。
1454年フィレンツェに帰国した後のドナテッロの作品には宗教的諦観が見られる。1450年代後半に制作された「ユディットとホロフェルネス」と「マグダラのマリア」。最後に未完成で残された、サン・ロレンツォ聖堂の対になったブロンズ説教壇。
1466年ドナテッロ死去、メディチ家当主ピエロの指示でサン・ロレンツォ聖堂の地下墓室、コジモ・デ・メディチの墓の側に葬られた。
ドナテッロ1 人物略歴
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1
イタリア・ルネサンスの巨匠たち8 ドナテッロ 東京書籍