
低地地方南部の経済 16・17世紀
16世紀の低地地方南部経済の中心はスヘルデ川河口のアントウェルペン(アントワープ)だった。新航路開拓によるポルトガルからの香辛料や砂糖、イギリスの毛織物、南ドイツの銀・銅がアントウェルペンの市場に運ばれた。神聖ローマ皇帝マクシミリアンの政策などで、自由な営業活動が保証されていたアントウェルペンには各国の商人たちが商館を設けた。都市の最盛期はカール5世の時代、1520〜60年代とされ、同時期のロンドンの4倍、毎年2500隻以上の外国船が入港していた。
15世紀末に3万人ほどだったアントウェルペンの人口は、1526年には5万5千人、1568年には10万人に増えた。ダイヤモンドのカット、ガラス、陶器、タピスリー生産など新たな産業が発展し、低地地方南部の輸出の80%、輸入の50%がアントウェルペンを経由した。
経済活動が活発になって経済的格差が広がっていった。1520〜30年代に都市下層民の増加が各地で見られるようになった。1525年にはフランドルのイーペルで貧民救済のための条例が公布されている。不労の貧民を取り締まる政策が実施され、1570年代以降にはフランドルやブラーバンドの各都市で公営質屋(慈善の山)が制度化された。
15世紀末に3万人ほどだったアントウェルペンの人口は、1526年には5万5千人、1568年には10万人に増えた。ダイヤモンドのカット、ガラス、陶器、タピスリー生産など新たな産業が発展し、低地地方南部の輸出の80%、輸入の50%がアントウェルペンを経由した。
経済活動が活発になって経済的格差が広がっていった。1520〜30年代に都市下層民の増加が各地で見られるようになった。1525年にはフランドルのイーペルで貧民救済のための条例が公布されている。不労の貧民を取り締まる政策が実施され、1570年代以降にはフランドルやブラーバンドの各都市で公営質屋(慈善の山)が制度化された。
フェリペ2世治下の諸反乱でアントウェルペンは大きな打撃を受けた。1576年、85年にはスペイン軍による略奪や虐殺がおきている。カルヴァン派の商工業者は北部共和国へ移住し、1589年の人口は4万2千人にまで減っている。1590年代は飢饉、疫病、略奪によって経済的にどん底の時代になった。1585年以来北部共和国によってスヘルデ川河口が閉鎖されて、国際港ではなくなった。
ペストは16世紀末から1670年代まで波状的に流行し、寒冷期に入った気候のために、しばしば凶作、飢饉にみまわれた。
17世紀に入ると、アントウェルペンの人口は再び増加し始めた。1620〜30年代は、疫病、諸戦争などのため経済は沈滞していた。しかしアムステルダムには及ばないが、イタリア、スペイン、オランダの中継地としての機能は維持し、ドイツの銅取引や印刷・絵画市場としての役割を果たした。
16世紀末から17世紀にかけてスペイン領低地地方では、毛織物や麻織物の生産をめぐって都市と農村の競合が見られたが、ブルッヘやヘントなどのフランドル都市はより高品質の布生産に特化した。タピスリーの生産もブラーバンド都市を中心に再び発展した。
用語集 ヨーロッパ史 スイス・ベネルクス史
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
ペストは16世紀末から1670年代まで波状的に流行し、寒冷期に入った気候のために、しばしば凶作、飢饉にみまわれた。
17世紀に入ると、アントウェルペンの人口は再び増加し始めた。1620〜30年代は、疫病、諸戦争などのため経済は沈滞していた。しかしアムステルダムには及ばないが、イタリア、スペイン、オランダの中継地としての機能は維持し、ドイツの銅取引や印刷・絵画市場としての役割を果たした。
16世紀末から17世紀にかけてスペイン領低地地方では、毛織物や麻織物の生産をめぐって都市と農村の競合が見られたが、ブルッヘやヘントなどのフランドル都市はより高品質の布生産に特化した。タピスリーの生産もブラーバンド都市を中心に再び発展した。
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