
聖職叙任権闘争6
1107年から皇帝と教皇による和解のための交渉が進められた。妥協が成立しないまま、1110年夏、ハインリヒ5世は戴冠式をあげるためにローマへ出発した。戴冠式前に一度は合意に達したが、その案は諸侯たちに強く反対されてしまった。ハインリヒ5世は教皇パスカリス2世を捕らえ、2ヵ月監禁した。1111年4月、教皇は国王による叙任を認めたまま皇帝の戴冠式をおこなった。
聖職者たちの強い反対を受けて、教皇は皇帝に与えた特権を再び破棄、ハインリヒ5世と新教皇カリクストゥス2世との間で交渉が進められた。
ドイツでは反皇帝の動きが強まり、1121年ヴュルツブルクで「平和会議」が開かれ、諸侯が「平和」を確定するように決議した。諸侯たちは皇帝にローマ教皇に服従するように求め、皇帝はこの要求を無視できなかった。
世界各国史13 ドイツ史
用語集 ヨーロッパ史年表
聖職者たちの強い反対を受けて、教皇は皇帝に与えた特権を再び破棄、ハインリヒ5世と新教皇カリクストゥス2世との間で交渉が進められた。
ドイツでは反皇帝の動きが強まり、1121年ヴュルツブルクで「平和会議」が開かれ、諸侯が「平和」を確定するように決議した。諸侯たちは皇帝にローマ教皇に服従するように求め、皇帝はこの要求を無視できなかった。
世界各国史13 ドイツ史
用語集 ヨーロッパ史年表
1122年9月「ヴォルムス協約」が取り交わされた。聖職者の権利・義務と世俗的な財産権・支配権を分けることで問題の解決が図られた。皇帝はローマ教会に「指輪と杖によるすべての叙任」を委ね、彼の王国または帝国におけるすべての教会で「教会法による選出と自由な叙階」がおこなわれることを認めた。教皇は「ドイツ王国の司教および大修道院長の選出」がハインリヒ5世の「臨席」のもとで「聖職売買やその他の暴力なしに」おこなわれること、また世俗的財産にかかわる部分については、ハインリヒ5世が俗権を象徴する笏によってそれを与えることを認めた。
司教は教皇によって叙任されるが、世俗的な封建君主としての側面では国王の大権に従う、という棲み分けが定められた。
教会改革の運動は、王権のもとにあった聖俗が結びついた政治・社会・精神構造を、聖俗が分離したものへと変える、古いヨーロッパを大きく変える契機となった。
司教は教皇によって叙任されるが、世俗的な封建君主としての側面では国王の大権に従う、という棲み分けが定められた。
教会改革の運動は、王権のもとにあった聖俗が結びついた政治・社会・精神構造を、聖俗が分離したものへと変える、古いヨーロッパを大きく変える契機となった。