
マグナート寡頭制
16世紀、好調な穀物輸出と賦役農場制によってシュラフタ領主層は潤っていた。しかし16世紀末から17世紀にかけて、農産物価格が下落し、穀物輸出が停滞して、中小の農場経営は危機に陥った。大領主はさらに土地を集め、「共和国」東部を中心に広大な所領をつくった。下層貴族やユダヤ人に農場を管理させ、農民の賦役と移動制限を強化した。17世紀半ばの戦乱で階層分化が進み、中小領主は打撃を受け、農民は貧窮化し、都市も衰退した。鋳貨濫造による貨幣価値の下落もあった。大領主は貨幣収入の減少を補うために、酒の生産を独占し、所領内の居酒屋で専売して農民の余剰所得を吸収した(プロピナツィアの権利)。これらの居酒屋などはユダヤ人に貸し付けられ、困窮した農民たちはユダヤ人を攻撃した。17世紀半ば、ウクライナの農民蜂起では、大規模なユダヤ人虐殺が起きている。
用語集 ヨーロッパ史 ポーランド・ウクライナ史
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
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世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
シュラフタ身分内の階層差拡大も見られた。広大な所領を持つマグナート層が台頭し、小さな領地しか持たない貧困シュラフタが増えて、次第にマグナートの支配下に組み込まれていった。
シュラフタには独自の「自由」と「平等」の観念が強く、たがいに「兄弟」と呼び合い、貴族内に格差をつけようとする動きには抵抗した。貴族身分自体は閉鎖化し、下位身分からの上昇は制限され、シュラフタの特権維持が重要視された。マグナートは王権からシュラフタの「自由」を守る姿勢をとることで、シュラフタからの支持を集める一方、下層貴族と非公式の権力関係(クリエンテラ)をつくっていった。
17世紀になると政治的意思決定は中央から地方に移った。全国議会の意義は低下し、マグナートは配下シュラフタを使って地方議会を操った。「シュラフタ民主制」を支えていた中間層が力を失い、少数の大貴族が国政に携わる「マグナート寡頭制」へと変わっていった。
シュラフタには独自の「自由」と「平等」の観念が強く、たがいに「兄弟」と呼び合い、貴族内に格差をつけようとする動きには抵抗した。貴族身分自体は閉鎖化し、下位身分からの上昇は制限され、シュラフタの特権維持が重要視された。マグナートは王権からシュラフタの「自由」を守る姿勢をとることで、シュラフタからの支持を集める一方、下層貴族と非公式の権力関係(クリエンテラ)をつくっていった。
17世紀になると政治的意思決定は中央から地方に移った。全国議会の意義は低下し、マグナートは配下シュラフタを使って地方議会を操った。「シュラフタ民主制」を支えていた中間層が力を失い、少数の大貴族が国政に携わる「マグナート寡頭制」へと変わっていった。