
ガリツィア・ヴォルイニ公国
キエフ・ルーシの南西部にガリツィア公国とヴォルイニ公国があった。1199年、ヴォルイニ公ローマンはガリツィア公国を併合してガリツィア・ヴォルイニ公国をつくり、大公を称した。ローマンは1202年にキエフを征服し、一時的にドニエプル川までその版図を広げた。ポーランド、ハンガリーと国境を接し、ドナウ川沿岸を通してビザンツ帝国とも関係を保ち、国際的中継貿易で栄えた。
ローマンの死後、貴族の反乱やハンガリー、ポーランドの介入で混乱したが、ローマンの息子ダニイロが1238年から1245年にかけて公国を再建した。
用語集 ヨーロッパ史 ポーランド・ウクライナ史
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
ローマンの死後、貴族の反乱やハンガリー、ポーランドの介入で混乱したが、ローマンの息子ダニイロが1238年から1245年にかけて公国を再建した。
用語集 ヨーロッパ史 ポーランド・ウクライナ史
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
モンゴルが侵入すると、ローマ教皇を含む西側諸国と連合して対抗したが、1246年バトゥ・ハンに臣従した。その後14世紀初めにガリツィアとヴォルイニを再び統合し、中継貿易や外国商人の移住を進めた。しかし貴族の反乱が続き、1340年に最後の大公ユーリー2世は貴族によって毒殺された。
貴族はリトアニア公リュバルタスに公位を捧げたが、ポーランド国王カジミエシ3世がリヴィウを占領し、ポーランドとリトアニアによって公国は分割されることになった。首都リヴィウは国際貿易や東欧文化のセンターとして発展し、14世紀にはバルト海と黒海を結ぶ交易路の商業都市となった。リヴィウは1349年にポーランド領となったあとも発展を続けた。
貴族はリトアニア公リュバルタスに公位を捧げたが、ポーランド国王カジミエシ3世がリヴィウを占領し、ポーランドとリトアニアによって公国は分割されることになった。首都リヴィウは国際貿易や東欧文化のセンターとして発展し、14世紀にはバルト海と黒海を結ぶ交易路の商業都市となった。リヴィウは1349年にポーランド領となったあとも発展を続けた。
