
バロックと反宗教改革
16世紀末、造形芸術でルネサンスの調和より、技巧的なデフォルメを重視する傾向が強まった。しかし、このマニエリスムの時代は短かった。
17世紀になると劇的効果をもちながら、より安定感のあるバロック様式がポーランドにも広まった。ジグムント3世はワルシャワの王宮を改築し(1598〜1619年)、ヴワディスワフ4世は宮廷でオペラやバレエを上演した。文学でもヤン・アンジェイ・モルシュティンやヴァッワフ・ポトツキなどのバロック詩人が活躍し、多くの回想録や日記類が書かれたが、出版業の中心・都市が衰退し教会の検閲が強くなって、その多くが印刷されなかった。17世紀は「手書きの時代」とも呼ばれる。
用語集 ヨーロッパ史 ポーランド・ウクライナ史
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
17世紀になると劇的効果をもちながら、より安定感のあるバロック様式がポーランドにも広まった。ジグムント3世はワルシャワの王宮を改築し(1598〜1619年)、ヴワディスワフ4世は宮廷でオペラやバレエを上演した。文学でもヤン・アンジェイ・モルシュティンやヴァッワフ・ポトツキなどのバロック詩人が活躍し、多くの回想録や日記類が書かれたが、出版業の中心・都市が衰退し教会の検閲が強くなって、その多くが印刷されなかった。17世紀は「手書きの時代」とも呼ばれる。
用語集 ヨーロッパ史 ポーランド・ウクライナ史
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
トレント公会議(1545〜63年)で体制を立て直したカトリック教会は、ポーランドでも1560年代から活発な活動を始めた。1564年にはイエズス会が導入され、ジグムント3世(在位1587〜1632)の時代にはイエズス会士の活躍によって、反プロテスタント暴動も起きた。1573年のワルシャワ連盟協約によって寛容が保証されていたため、カトリック教会は説教・宗教劇などで信徒獲得に努めた。イエズス会の標語「目から魂へ」にも示されているような教会建築や宗教画を活用して、活字文化によるプロテスタントに対抗して、感覚に訴えた。イエズス会は教育にも力を入れ、17世紀半ばに約40校のコレギウムを建て、ヴィルノのコレギウムは1579年に大学になって、東方へのカトリック布教の拠点となった。
17世紀にはスウェーデン(ルター派)、ロシア(正教会)、トルコ(イスラム)との戦争が続き、ポーランド人意識とカトリシズムが一体化する傾向が見られた。ポーランドの守護者として聖母マリアが崇拝され、「共和国」は「キリスト教の防壁」ともみなされた。1658年に反三位一体派の追放が決議されて、ワルシャワ連盟協約が実質的に停止し、カトリシズムの民族化が進んだ。
17世紀にはスウェーデン(ルター派)、ロシア(正教会)、トルコ(イスラム)との戦争が続き、ポーランド人意識とカトリシズムが一体化する傾向が見られた。ポーランドの守護者として聖母マリアが崇拝され、「共和国」は「キリスト教の防壁」ともみなされた。1658年に反三位一体派の追放が決議されて、ワルシャワ連盟協約が実質的に停止し、カトリシズムの民族化が進んだ。