
シチリア王国 スペイン支配下
シチリア王国もスペインの支配下にあったが、その関係はナポリ王国とは違っていた。シチリアでは、1098年に教皇ウルバヌス2世(在位1088〜99)がロジェール(ルッジェーロ1世)に与えた教皇代行権に基づき、国王が聖職者に対する任命権と裁判権によって教会を支配する体制が続いていた。1487年には王権直属の異端審問所が導入され、16世紀の一時期、副王をしのぐ権限を行使している。スペインの異端審問所はサルデーニャ王国にも設置されたが、ミラノ公国・ナポリ王国には抵抗があって導入されなかった。シチリア人は武力で征服されたのではなく、契約によってスペイン王のもとにあると考えていて、国王との交渉・取引を重視していた。中央行政の役職は、副王顧問と王室財産管理官を除くとシチリア人が登用された。シチリア貴族とスペイン貴族の姻戚関係による融合が進んでいたことにもより、任期は2年と短かった。枢密会議に代わる役割を副王顧問が果たしていた。
行政的単位はシチリアでもウニヴェルシタ(共同体)と呼ばれた。16世紀末に約190だったのが、18世紀初めには310に増えている。国王直轄地の数は50前後と変わらず、国王の認可を得て領主が建設した新村が増えている。
用語集 ヨーロッパ史 イタリア史
行政的単位はシチリアでもウニヴェルシタ(共同体)と呼ばれた。16世紀末に約190だったのが、18世紀初めには310に増えている。国王直轄地の数は50前後と変わらず、国王の認可を得て領主が建設した新村が増えている。
用語集 ヨーロッパ史 イタリア史
シチリアの人口は16世紀初めには約60万人、17世紀初めには約110万人に増えている。16世紀後半シチリアは、ジェノヴァ、トスカーナなどに小麦を輸出していたが、16世紀末の凶作以降イタリア諸国は北ヨーロッパからの安い小麦を輸入するようになり、シチリア島内の人口増もあってシチリアの小麦輸出量は減少した。シチリア島内では小麦生産量の増加が必要で、貴族たちによる新村建設が進んだ。新村は上級裁判権を含む領主の諸権利によって運営されるが、植民者を増やすために、農民のための家屋を準備し、耕地を永代小作で貸与したり、旧居住地での犯罪を帳消しにするなどの好条件が示された。
シチリアにはノルマン朝時代から議会があり、貴族部会と聖職者部会に後から国王直轄地の部会が加わって三部会になった。最大の審議事項は税にあたる上納金の決定とその負担の割当だった。
シチリア島西部には新村が多く建設され、穀物生産地帯になった。パレルモは「穀物のシチリア」の中心になった。島の北東部は生糸の生産地で、「生糸のシチリア」の中心、メッシーナは生糸の輸出港として栄えていた。人口10万人を越える2つの都市で首都をめぐる争いが続けられていた。
世界各国史15 イタリア史
シチリアにはノルマン朝時代から議会があり、貴族部会と聖職者部会に後から国王直轄地の部会が加わって三部会になった。最大の審議事項は税にあたる上納金の決定とその負担の割当だった。
シチリア島西部には新村が多く建設され、穀物生産地帯になった。パレルモは「穀物のシチリア」の中心になった。島の北東部は生糸の生産地で、「生糸のシチリア」の中心、メッシーナは生糸の輸出港として栄えていた。人口10万人を越える2つの都市で首都をめぐる争いが続けられていた。
世界各国史15 イタリア史