
ナポリ王国 スペイン支配下
スペイン王によるナポリ王国の支配は1503年から1707年まで続いた。国王が派遣するスペイン貴族の副王が統治した。任期は3年だったが通常2期続けて在任した。17世紀前半、7期、21年間副王を務めたペドロ・デ・トレードは例外だった。彼の統治期にナポリ市の市壁の拡大、サンテルモ城の大改築、スペイン兵が駐屯するスペイン街区の開発、「トレード通り」(現ローマ通り)建設など都市拡張が進んだ。
スペインはナポリ市に行政・司法の権力を集中して王国を統治した。ナポリ市の居住者には市税以外の直接税が免除され、凶作の年でもパンを公定価格で提供する食糧管理がおこなわれて、地方の人々もナポリ市に集まった。16世紀のあいだにナポリ市の人口は倍増し、17世紀初めにはイタリア最大の28万人に達していた。
市街には人があふれ、6〜7階建ての高層住宅が建築されたが、路上生活者も多かった。ナポリ特有の貧民層が生まれたが、市当局は祭りや催し物を奨励して、貧しいけれども陽気な人々が暮らす街になった。
スペインによるナポリ王国統治の最高機関は、副王が主宰する枢機会議で、マドリードのイタリア諮問会議と連携して、王国の軍事・行政・司法にかかわる重要事項を審議した。司法組織は聖王評定院が最高裁判所に相当し、その下に司法代官大法廷があって、民事・刑事の裁判をおこない、ナポリ市の治安維持を担当した。
用語集 ヨーロッパ史 イタリア史
世界各国史15 イタリア史
スペインはナポリ市に行政・司法の権力を集中して王国を統治した。ナポリ市の居住者には市税以外の直接税が免除され、凶作の年でもパンを公定価格で提供する食糧管理がおこなわれて、地方の人々もナポリ市に集まった。16世紀のあいだにナポリ市の人口は倍増し、17世紀初めにはイタリア最大の28万人に達していた。
市街には人があふれ、6〜7階建ての高層住宅が建築されたが、路上生活者も多かった。ナポリ特有の貧民層が生まれたが、市当局は祭りや催し物を奨励して、貧しいけれども陽気な人々が暮らす街になった。
スペインによるナポリ王国統治の最高機関は、副王が主宰する枢機会議で、マドリードのイタリア諮問会議と連携して、王国の軍事・行政・司法にかかわる重要事項を審議した。司法組織は聖王評定院が最高裁判所に相当し、その下に司法代官大法廷があって、民事・刑事の裁判をおこない、ナポリ市の治安維持を担当した。
用語集 ヨーロッパ史 イタリア史
世界各国史15 イタリア史
財政・金融については、王国最高会計院が、課税(間接税)、食糧管理、王領地経営などをおこない、封土および共同体(ウニヴェルシタ)の経済紛争についての裁判権を持っていた。会計院の地方機関として収税庁があり、収税官のもとで徴税請負人が活動した。徴税職は売買され、ジェノヴァ商人も多かった。
王国は13世紀以来12の行政区に分けられていた。地方統治の機関として聴訴院がおかれ、地方長官のもとで司法・行政・軍事の業務がおこなわれた。
都市の行政は有力貴族が握っていた。王国の主要都市には有力貴族が組織する「集会(座)」があり、加入している貴族は「集会所属貴族」、非加入だと「集会外貴族」とされた。「集会」は閉鎖的な組織で、17世紀前半ナポリ市には5つの「集会」があり、集会所属貴族の数は120ほどだった。ナポリ市には「集会」から選出される貴族5名とポーポロ代表1名、6名で構成される代表者評議会が、市政府として都市行政を運営した。
ポーポロとは(上層)市民層。構成するのは貴族風に暮らす富裕者、官職保有者と法曹、商人と一部の職人(印刷工、貴金属細工師、絹織物工、絵師、建築工)。ポーポロの下に大部分の職人が含まれる民衆。民衆の多数を占めたのはラッザロ、ラッザローネと呼ばれた下層民だった。ポーポロには一つの「集会」しかなかったが、29に分かれた街区から選ばれた候補者のなかから副王が代表者一人を決めた。副王が代表者の指名権を持つことは、ナポリ市政に介入する手掛かりにもなった。
王国は13世紀以来12の行政区に分けられていた。地方統治の機関として聴訴院がおかれ、地方長官のもとで司法・行政・軍事の業務がおこなわれた。
都市の行政は有力貴族が握っていた。王国の主要都市には有力貴族が組織する「集会(座)」があり、加入している貴族は「集会所属貴族」、非加入だと「集会外貴族」とされた。「集会」は閉鎖的な組織で、17世紀前半ナポリ市には5つの「集会」があり、集会所属貴族の数は120ほどだった。ナポリ市には「集会」から選出される貴族5名とポーポロ代表1名、6名で構成される代表者評議会が、市政府として都市行政を運営した。
ポーポロとは(上層)市民層。構成するのは貴族風に暮らす富裕者、官職保有者と法曹、商人と一部の職人(印刷工、貴金属細工師、絹織物工、絵師、建築工)。ポーポロの下に大部分の職人が含まれる民衆。民衆の多数を占めたのはラッザロ、ラッザローネと呼ばれた下層民だった。ポーポロには一つの「集会」しかなかったが、29に分かれた街区から選ばれた候補者のなかから副王が代表者一人を決めた。副王が代表者の指名権を持つことは、ナポリ市政に介入する手掛かりにもなった。