
オスマン帝国 ギリシアの支配体制
オスマン帝国は遊牧民の戦士集団から君侯国、帝国へと発展していった。当初、軍事では君主・ベイが最高指揮官で、君主が親征しないときは、君主の息子がベイレルベイ「ベイたちのベイ」の称号で「総司令官」として指揮をとった。君侯国から辺境の帝国となっていく、第3代ムラト1世(在位1360頃〜89)の時代にはベイレルベイに王子ではなく臣下が任じられた。14世紀末から15世紀初め頃にアナドル(アナトリア)方面のベイレルベイが任命され、ルメリ(バルカン)のベイレルベイと管轄が分けられた。
帝国の支配体制が発展し、君主専制的・中央集権的になって、大軍管区長官としてのベイレルベイの役割は、軍司令官よりも地方行政官、総督のようになり、管轄下の大軍管区・ベイレルベイリクも行政区画の「州」のようになっていった。ベイレルベイのもとにサンジャク・ベイと呼ばれる小軍管区長とサンジャクと呼ばれる小軍管区があったが、のちに行政官としての知事、管轄下の「県」のようになった。
用語集 ヨーロッパ史 ギリシア史
世界各国史17 ギリシア史
帝国の支配体制が発展し、君主専制的・中央集権的になって、大軍管区長官としてのベイレルベイの役割は、軍司令官よりも地方行政官、総督のようになり、管轄下の大軍管区・ベイレルベイリクも行政区画の「州」のようになっていった。ベイレルベイのもとにサンジャク・ベイと呼ばれる小軍管区長とサンジャクと呼ばれる小軍管区があったが、のちに行政官としての知事、管轄下の「県」のようになった。
用語集 ヨーロッパ史 ギリシア史
世界各国史17 ギリシア史
戦時、ベイレルベイ、サンジャク・ベイの指揮下には、当初からのムスリム・トルコ系戦士集団、諸君侯国に属していて帰順したムスリム・トルコ系の戦士、ビザンツ帝国および後継諸国家の軍人のうち帰順した戦士がいた。
戦士たちの給養システムとして、ティマール制が整えられた。一定の土地について、金額で示された租税の徴収権を与えられた戦士は、在地で生活し、戦時には年収額によって規定された装備と補助兵力を備えて軍役についた。サンジャク内の在地戦士は、サンジャク・ベイの指揮下にはいり、サンジャク・ベイたちはそれぞれのベイレルベイの指揮下に軍団を構成した。
帝国全土は行政区画としてのベイレルベイリク(州)・サンジャク(県)とは別に、イスラーム法に基づく司法と民政にたずさわるイスラーム法官の裁判区としてのカザ(イスラーム法官区)にも分かれていた。県にはいくつかのカザがあったが、イスラーム法官は州知事・県知事との指揮命令関係はなく、相互補完、相互監視をするシステムになっていた。
戦士たちの給養システムとして、ティマール制が整えられた。一定の土地について、金額で示された租税の徴収権を与えられた戦士は、在地で生活し、戦時には年収額によって規定された装備と補助兵力を備えて軍役についた。サンジャク内の在地戦士は、サンジャク・ベイの指揮下にはいり、サンジャク・ベイたちはそれぞれのベイレルベイの指揮下に軍団を構成した。
帝国全土は行政区画としてのベイレルベイリク(州)・サンジャク(県)とは別に、イスラーム法に基づく司法と民政にたずさわるイスラーム法官の裁判区としてのカザ(イスラーム法官区)にも分かれていた。県にはいくつかのカザがあったが、イスラーム法官は州知事・県知事との指揮命令関係はなく、相互補完、相互監視をするシステムになっていた。