
エドワード1世 2
エドワード1世は1274〜75年に、国王財産もしくは王権に対する侵害の調査をおこなった。以前国王から下封・授与された土地、出仕義務、令状復命権、市場開設権などの特権が、現在誰によってどのような権限で保有されているかを調査・報告するように命じられた。1278年にはグロスタ制定法によって土地の領有権や領主特権を主張する者に、国王裁判官の前での権限説明を命じた。
すべての特権や土地保有権が国王に由来するとしたい国王側の狙いだったが、長期占有による特権の保有を主張する多くの者たちの抵抗にあって、国王が回復した土地や特権は多くはなかった。1290年の権限開示訴訟と呼ばれる手続きによって、長期占有の有効性が認められた。
封主への義務(主君の法廷への出仕など)を怠った封臣に、封主が差し押さえという方法で義務の履行を強制するのは、中世には認められていた。このような自力救済による封主封臣間の争いは、1259年のウエストミンスタ条款にも扱われる、大きな問題になっていた。
1267年のモールバラ法で差し押さえの方法を限定し、差し押さえた資産の回復方法を定め、封主の差し押さえの権利を保障した。1285年のウエストミンスタ第2制定法では差し押さえを担当する者の資格を制限するなど、自力救済の制度を王権が定めた。
エドワード1世3 4 1
用語集 ヨーロッパ史 イギリス史
世界各国史11 イギリス史
すべての特権や土地保有権が国王に由来するとしたい国王側の狙いだったが、長期占有による特権の保有を主張する多くの者たちの抵抗にあって、国王が回復した土地や特権は多くはなかった。1290年の権限開示訴訟と呼ばれる手続きによって、長期占有の有効性が認められた。
封主への義務(主君の法廷への出仕など)を怠った封臣に、封主が差し押さえという方法で義務の履行を強制するのは、中世には認められていた。このような自力救済による封主封臣間の争いは、1259年のウエストミンスタ条款にも扱われる、大きな問題になっていた。
1267年のモールバラ法で差し押さえの方法を限定し、差し押さえた資産の回復方法を定め、封主の差し押さえの権利を保障した。1285年のウエストミンスタ第2制定法では差し押さえを担当する者の資格を制限するなど、自力救済の制度を王権が定めた。
エドワード1世3 4 1
用語集 ヨーロッパ史 イギリス史
世界各国史11 イギリス史
また国王の権利を確立するために、1279年には死手法と呼ばれる制定法で、封土を宗教的団体に寄付して相続税を免れることを禁じた。1290年には再下封禁止法で、封臣が封土をさらに別人に下封することを禁じた。以後封土を譲り受けた者はあらたに国王の封臣としての義務を果たすことになり、国王から直接土地を保有する者を増やすことになった。
1283年のアクトン・バーネル制定法は、商人が債権取り立てのために差し押さえができることを認め、1285年にはそれを改訂した商人法がつくられた。また地域の治安維持を住民に義務づけるなどの諸規定を統合したウィンチェスタ法が制定された。
国王によって、封建関係の整序と住民一般の日常の規定の整備が進められている。これらはパーラメントでの法の制定によって進められた。当時のパーラメントは、住民や団体からの請願に対する国王の回答を示していた。
1290年、イングランドからユダヤ教徒が追放されている。
1286年5月、エドワード1世は王妃、王弟、尚書部長官らとフランスへ渡った。パリ条約でエドワードがフランスに領有する土地について、王になったフィリップ4世に臣従した。1287年には十字軍参加の誓約をし、教皇から十字軍税徴収の許可を得た。1289年8月までフランスにとどまり、イングランドに戻った。イングランドでは財務府長官が2月のパーラメントであらたな援助金賦課を申請し、諸侯は王との直接交渉を求めていた。
1283年のアクトン・バーネル制定法は、商人が債権取り立てのために差し押さえができることを認め、1285年にはそれを改訂した商人法がつくられた。また地域の治安維持を住民に義務づけるなどの諸規定を統合したウィンチェスタ法が制定された。
国王によって、封建関係の整序と住民一般の日常の規定の整備が進められている。これらはパーラメントでの法の制定によって進められた。当時のパーラメントは、住民や団体からの請願に対する国王の回答を示していた。
1290年、イングランドからユダヤ教徒が追放されている。
1286年5月、エドワード1世は王妃、王弟、尚書部長官らとフランスへ渡った。パリ条約でエドワードがフランスに領有する土地について、王になったフィリップ4世に臣従した。1287年には十字軍参加の誓約をし、教皇から十字軍税徴収の許可を得た。1289年8月までフランスにとどまり、イングランドに戻った。イングランドでは財務府長官が2月のパーラメントであらたな援助金賦課を申請し、諸侯は王との直接交渉を求めていた。