
ヘンリ2世 3
1162年、ヘンリ2世の推挙によってカンタベリ大司教となったトマス・ベケットは、1164年クラレンドンで開かれた聖俗諸侯の会議で、国王が同意を求めた、国家と教会の関係に関する慣習と法の受諾を拒んだ。その後、国王からの圧迫、ベケットの大陸への亡命、ヘンリ派司教の破門などを経て、帰国したベケットは、1170年12月カンタベリ大司教座聖堂内で、国王の意を受けた騎士たちによって殺害された。俗人王による大司教殺害は、キリスト教世界に大きな衝撃を与えた。
ローマ教皇は1171年4月、ヘンリの在仏領土に聖務停止令をだした。ヘンリは悔悛の意を示し、1172年アヴランシュで教皇と和解の協約を結んだ。教会裁判所で有罪判決を受けた聖職者に、国王裁判所が刑罰を科せるか、が争点だったが、ヘンリは聖職者に対する刑事裁判権を放棄することになった。しかし、教会の保有する世俗的諸権利に関する裁判権は国王に属することも確認された。
1173年ベケットは聖別されて、カンタベリは16世紀の宗教改革まで多くの巡礼者を集めた。ヘンリは自らも参詣し、聖俗の裁判権の管轄範囲を時代に順応させるように努めた。
1169年、アイルランドでの小領主たちの内乱に南ウェールズの小領主たちが介入することで、イングランド勢力のアイルランド南部への侵入が始まった。1170年8月、南ウェールズの領主リチャード・ド・クレアが現地王の娘と結婚して、71年にダブリン王の名を得た。同年10月ヘンリ2世は大軍でアイルランドを攻め、クレアを封臣とし現地領主たちに宗主権を認めさせて、ヒュー・ド・レイシを総督として統治させた。以前、1154年に教皇ハドリアヌス4世がヘンリにアイルランド教化援助の手紙を与えたことが根拠とされた。
ローマ教皇は1171年4月、ヘンリの在仏領土に聖務停止令をだした。ヘンリは悔悛の意を示し、1172年アヴランシュで教皇と和解の協約を結んだ。教会裁判所で有罪判決を受けた聖職者に、国王裁判所が刑罰を科せるか、が争点だったが、ヘンリは聖職者に対する刑事裁判権を放棄することになった。しかし、教会の保有する世俗的諸権利に関する裁判権は国王に属することも確認された。
1173年ベケットは聖別されて、カンタベリは16世紀の宗教改革まで多くの巡礼者を集めた。ヘンリは自らも参詣し、聖俗の裁判権の管轄範囲を時代に順応させるように努めた。
1169年、アイルランドでの小領主たちの内乱に南ウェールズの小領主たちが介入することで、イングランド勢力のアイルランド南部への侵入が始まった。1170年8月、南ウェールズの領主リチャード・ド・クレアが現地王の娘と結婚して、71年にダブリン王の名を得た。同年10月ヘンリ2世は大軍でアイルランドを攻め、クレアを封臣とし現地領主たちに宗主権を認めさせて、ヒュー・ド・レイシを総督として統治させた。以前、1154年に教皇ハドリアヌス4世がヘンリにアイルランド教化援助の手紙を与えたことが根拠とされた。
1175年、ウィンザー協定でヘンリの宗主権が認められ、77年には10歳の息子ジョンにアイルランドの統治権を与える許可を教皇から得ている。13世紀にはイングランドの属領となって、王の恩顧政治の道具として使われるようになった。
ヘンリ2世は1175年にはスコットランド王ウィリアム1世、77年には南北ウェールズの諸侯たちに臣従を誓わせている。息子たちとフランス王の娘たちとの結婚を取り決め、一方では1168年に長女マティルダをハインリヒ獅子公に、76年には次女イリナをカスティリャ王アルフォンソ3世に、77年には三女ジョーンをシチリア王グリエルモに嫁がせて、フランス王権と対立しながら、皇帝・教皇との協調関係を築こうとしている。
イングランド統治は順調だったが、アンジュー帝国はフランス王との対立という状況で次第に解体へと向かった。1169年モンミレーユ条約で、王子ヘンリにノルマンディ、メーヌ、アンジュー、リチャードにアキテーヌ、ジョフリにブルターニュを統治させる約束をしていた。それぞれの統治は現地諸侯が統治者に臣従することが必要だった。フランス・カペー家の介入のためにヘンリ2世に忠誠を誓う現地諸侯が減り始たことで、王子たちを仲介者とするアンジュー帝国の統治策は破綻した。
1173年、三人の王子が父ヘンリに反抗し、妻イリナも王子側についた。このときは鎮圧されたが、反抗は続き、1188年にはリチャードがノルマンディ公、アキテーヌ公としてフランス王フィリップ2世に臣従した。翌89年5月、フランス王とリチャードはヘンリと戦い、敗れたヘンリは7月シノンで死去した。
用語集 ヨーロッパ史 イギリス史
世界各国史11 イギリス史
ヘンリ2世は1175年にはスコットランド王ウィリアム1世、77年には南北ウェールズの諸侯たちに臣従を誓わせている。息子たちとフランス王の娘たちとの結婚を取り決め、一方では1168年に長女マティルダをハインリヒ獅子公に、76年には次女イリナをカスティリャ王アルフォンソ3世に、77年には三女ジョーンをシチリア王グリエルモに嫁がせて、フランス王権と対立しながら、皇帝・教皇との協調関係を築こうとしている。
イングランド統治は順調だったが、アンジュー帝国はフランス王との対立という状況で次第に解体へと向かった。1169年モンミレーユ条約で、王子ヘンリにノルマンディ、メーヌ、アンジュー、リチャードにアキテーヌ、ジョフリにブルターニュを統治させる約束をしていた。それぞれの統治は現地諸侯が統治者に臣従することが必要だった。フランス・カペー家の介入のためにヘンリ2世に忠誠を誓う現地諸侯が減り始たことで、王子たちを仲介者とするアンジュー帝国の統治策は破綻した。
1173年、三人の王子が父ヘンリに反抗し、妻イリナも王子側についた。このときは鎮圧されたが、反抗は続き、1188年にはリチャードがノルマンディ公、アキテーヌ公としてフランス王フィリップ2世に臣従した。翌89年5月、フランス王とリチャードはヘンリと戦い、敗れたヘンリは7月シノンで死去した。
用語集 ヨーロッパ史 イギリス史
世界各国史11 イギリス史