
社会的規律化
絶対王政国家は、社会的諸集団とその下で暮らす人々にとって、外部からの侵入者だった。
王権は社会のさまざまな領域に規制の網をかけ、社会のさまざまな関係に介入して支配しようとした。経済面では、各ギルドが個別に定めていた規則を画一化して統制しようとした、宣誓ギルドの制度などがあり、経済規制は17世紀後半、コルベールの頃に盛んにおこなわれた。
信仰、思想などの文化面では、1563年の王令以来の出版統制があった。国家や教会を批判するもの、誹謗文書、公序良俗に反するとされたものが取り締まられた。パリでは印刷の場所、設備にも規制が加えられた。
ポリス(16世紀末から18世紀末の頃は警察制度を指す言葉ではなかった。)とは、街の公安、風紀取締り、救貧、公衆衛生、都市環境の整備、食糧供給、経済活動の規制・監督など住民生活の維持全般に関わることの管理を意味していた。王権が確立した17世紀半ば以降、都市の日常空間の管理と救貧に関心が向けられた。
用語集・地域別 ヨーロッパ史 フランス史
世界各国史12フランス史
王権は社会のさまざまな領域に規制の網をかけ、社会のさまざまな関係に介入して支配しようとした。経済面では、各ギルドが個別に定めていた規則を画一化して統制しようとした、宣誓ギルドの制度などがあり、経済規制は17世紀後半、コルベールの頃に盛んにおこなわれた。
信仰、思想などの文化面では、1563年の王令以来の出版統制があった。国家や教会を批判するもの、誹謗文書、公序良俗に反するとされたものが取り締まられた。パリでは印刷の場所、設備にも規制が加えられた。
ポリス(16世紀末から18世紀末の頃は警察制度を指す言葉ではなかった。)とは、街の公安、風紀取締り、救貧、公衆衛生、都市環境の整備、食糧供給、経済活動の規制・監督など住民生活の維持全般に関わることの管理を意味していた。王権が確立した17世紀半ば以降、都市の日常空間の管理と救貧に関心が向けられた。
用語集・地域別 ヨーロッパ史 フランス史
世界各国史12フランス史
パリの秩序維持のために、王権は1666年から67年にかけて、コルベール主導のもとでポリス改革のための諮問会議を開き、パリ警視総監の職を創設した。
中世、貧民はイエス・キリストを体現した神聖な存在とされ、否定される存在ではなかった。商品経済が発展し、労働や富に対する観念が変化して、16世紀頃から名望家層が貧民を厄介視し、秩序に対する脅威と捉えられるようになった。救貧は教会や篤志家の施しから、秩序維持のためとして世俗権力の手に移っていった。16世紀には救貧が貧民が集まった都市に委ねられていて、リヨン市の例が知られている。リヨン市は1531年に「大施物会」でパンを配給し、配給を受けた貧民を監視下におき、他地域からの流入を排除した。1534年には「大施物会」が恒常的な施設になった。
17世紀後半になって国家が救貧に取り組み始めた。1656年の王令で既存の救貧施設を国家の運営のもとに統合してパリ総救貧院が設立されて、パリ地区の貧民が収容された。1662年には地方のすべての都市に、総救貧院を設置するように命じている。政府の救貧政策の目的は秩序の維持で、貧民だけでなく、浮浪行為をおこなっている者たちも強制的に収容された。
中世、貧民はイエス・キリストを体現した神聖な存在とされ、否定される存在ではなかった。商品経済が発展し、労働や富に対する観念が変化して、16世紀頃から名望家層が貧民を厄介視し、秩序に対する脅威と捉えられるようになった。救貧は教会や篤志家の施しから、秩序維持のためとして世俗権力の手に移っていった。16世紀には救貧が貧民が集まった都市に委ねられていて、リヨン市の例が知られている。リヨン市は1531年に「大施物会」でパンを配給し、配給を受けた貧民を監視下におき、他地域からの流入を排除した。1534年には「大施物会」が恒常的な施設になった。
17世紀後半になって国家が救貧に取り組み始めた。1656年の王令で既存の救貧施設を国家の運営のもとに統合してパリ総救貧院が設立されて、パリ地区の貧民が収容された。1662年には地方のすべての都市に、総救貧院を設置するように命じている。政府の救貧政策の目的は秩序の維持で、貧民だけでなく、浮浪行為をおこなっている者たちも強制的に収容された。