
セルビア
7世紀、バルカンに移住してきたセルビア人は、長い間ビザンツ帝国やブルガリアの勢力下で部族に別れていた。ゼータ(モンテネグロ)を中心とする勢力が、首長のヴォイスラヴ(在位1035〜50)によって独立し、ゼータ王国が成立した。ヴォイスラヴの子ミハイロ(在位1050〜82)は、ビザンツ帝国と対抗するためにローマ教会に接近し、1077年教皇から王冠を授けられた。続くボディン(在位1081〜1101頃)の時代に最大版図となったが、彼の死後、多くのジュパ(首長領)に分かれ、ビザンツ帝国に征服された。ボスニアは1180年以降ハンガリーの宗主権下におかれた。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房 1328年 部分
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房 1328年 部分
1168年、ステファン・ネマニャ(在位1168〜96)がビザンツの内紛を機に、セルビアのほぼ全域を統一した。ネマニャ朝を創設し、中世セルビア王国の基礎を固めると、二人の息子に王位を譲った。ステファン・ネマニャは修道士シメオンとして末子サヴァとともにアトス山にセルビア系のヒランダル修道院を建立した。次男ステファン(在位1196〜1227)は教皇から王冠を授かり「初代戴冠王」と呼ばれた。王位争奪戦を経て、ウロシュ1世、ウロシュ2世の時代に領土を広げた。ステファン・デチャンスキ(ウロシュ3世 在位1321〜31)は、1330年、ビザンツ帝国と同盟関係にあるブルガリアとの戦いに勝利して、ブルガリア皇帝シシュマンを敗死させた。バルカンでのセルビア優位を決定づけたが、翌年息子ステファン・ドゥシャンに王位を奪われた。
