
オスマン朝の支配体制 1
初期のオスマン朝は、遊牧民を組織して異教徒の土地征服を進める戦士(ガーズィー)たちの連合国家だった。スルタンを称し始めたムラト1世(1360〜89)の時代からオスマン家による専制支配が始まり、コンスタンティノープルを陥落させたメフメト2世の時代には、以前からのトルコ系の軍人や官僚が除かれて、スルタンの絶対的権力が確立した。
オスマン朝は、キリスト教徒の男子(12〜20歳)を徴用し、改宗させ、教育して、軍人・官僚として採用するデウシルメ制度を導入した。これらの官僚層(カプ・クル)はスルタンの個人的奴隷で、歩兵常備軍イェニチェリを構成し、中央・地方の主要官職を独占した。またイスラーム国家では、教育・司法・行政の一部をイスラーム専門知識者階層(ウラマー、ウレマー)が担っていたが、彼らも国家の官僚として統制下におかれていた。
ティマール制
「封土」を与えられたスィパーヒー(騎士)が戦時に武装した一定の従者を伴って軍役をつとめる制度。「封土」は一般のスィパーヒーにはティマール、上層には、より収入が多いゼアメトやハッス(上級地方官・中央の高官・スルタンの一族)が与えられた。オスマン支配を受け入れたキリスト教徒の封建領主がスィパーヒーになることもあり、15世紀のオスマン軍には多くのキリスト教徒スィパーヒーがいた。
オスマン朝は、キリスト教徒の男子(12〜20歳)を徴用し、改宗させ、教育して、軍人・官僚として採用するデウシルメ制度を導入した。これらの官僚層(カプ・クル)はスルタンの個人的奴隷で、歩兵常備軍イェニチェリを構成し、中央・地方の主要官職を独占した。またイスラーム国家では、教育・司法・行政の一部をイスラーム専門知識者階層(ウラマー、ウレマー)が担っていたが、彼らも国家の官僚として統制下におかれていた。
ティマール制
「封土」を与えられたスィパーヒー(騎士)が戦時に武装した一定の従者を伴って軍役をつとめる制度。「封土」は一般のスィパーヒーにはティマール、上層には、より収入が多いゼアメトやハッス(上級地方官・中央の高官・スルタンの一族)が与えられた。オスマン支配を受け入れたキリスト教徒の封建領主がスィパーヒーになることもあり、15世紀のオスマン軍には多くのキリスト教徒スィパーヒーがいた。
スィパーヒーは封土の農民から穀物の現物税を主とする税を徴収した。税目と額は細かく規定され、逸脱行為は厳しく制限された。耕作地は原則として国有地で、私有地化は禁止され、世襲も制限されていた。耕作地は一対の牡牛で耕作できる5〜15ヘクタールほどの広さが基本で、成人男子を中心とする家族単位に付与された。自営農が農業生産と税制の基本とされ、スィパーヒーは農民の耕作権と経営を保護する責任も負っていた。
オスマン帝国は行政区分としてエヤーレト(州)に分けられ、各州はそれぞれサンジャク・ベイが統治するサンジャク(県)に下位区分されていた。当初バルカン地域はルメリ州で、30ほどのサンジャクがおかれていた。1541年、北部にブダ州がおかれ、16世紀末にはボスニア・ヘルツェゴヴィナにボスナ州がおかれた。
スィパーヒーは戦時には、サンジャク・ベイのもとで戦場で戦い、平時には治安維持や警察業務をおこなった。州の総督ベイレル・ベイは州のすべてのスィパーヒーの総司令官で、行政面ではサンジャク・ベイを監督し、州都のあるサンジャクの行政官でもあった。16世紀になるとベイレル・ベイやサンジャク・ベイのほとんどがカプ・クル層出身者となり、短期間で転任を繰り返して在地化することは少なく、中央政府による地方支配は円滑に機能した。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史 支配体制2
世界各国史18 バルカン史
オスマン帝国は行政区分としてエヤーレト(州)に分けられ、各州はそれぞれサンジャク・ベイが統治するサンジャク(県)に下位区分されていた。当初バルカン地域はルメリ州で、30ほどのサンジャクがおかれていた。1541年、北部にブダ州がおかれ、16世紀末にはボスニア・ヘルツェゴヴィナにボスナ州がおかれた。
スィパーヒーは戦時には、サンジャク・ベイのもとで戦場で戦い、平時には治安維持や警察業務をおこなった。州の総督ベイレル・ベイは州のすべてのスィパーヒーの総司令官で、行政面ではサンジャク・ベイを監督し、州都のあるサンジャクの行政官でもあった。16世紀になるとベイレル・ベイやサンジャク・ベイのほとんどがカプ・クル層出身者となり、短期間で転任を繰り返して在地化することは少なく、中央政府による地方支配は円滑に機能した。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史 支配体制2
世界各国史18 バルカン史