クロアチア
フランク王国はカール大帝のもとで領土拡大を進め、803年にはダルマツィア北部に支配権を広げた。ビザンツ帝国は870年にセマ・ダルマツィアを設置し南部の良港デュラキオンを拠点に交易活動を展開した。ただしダルマツィアの港湾諸都市はビザンツの宗主権下にあったが、独自の参事会と法をもっていた。クロアチアはこの二大勢力の影響を受けて、東西両教会の対立・抗争の場ともなり、複雑な文化的状況におかれていた。
クロアチアの諸部族は、ジュパと呼ばれる部族単位の共同体にとどまっていたが、ヴラニミルによる統一が進み、879年に教皇から独立国家として承認された。その後軍事的才能に恵まれたトミスラヴ(在位910頃〜928)はパンノニアとダルマツィアにクロアチア人の統一国家を成立させた。彼の死後、内紛のために衰退したが、ペタル・クレシミル(在位1059頃〜74)は海軍力を回復させ、その子ズヴォニミル(在位1075〜89)の時代に一時政権が安定したが、その死後王位を巡る争いが激化した。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
クロアチアの諸部族は、ジュパと呼ばれる部族単位の共同体にとどまっていたが、ヴラニミルによる統一が進み、879年に教皇から独立国家として承認された。その後軍事的才能に恵まれたトミスラヴ(在位910頃〜928)はパンノニアとダルマツィアにクロアチア人の統一国家を成立させた。彼の死後、内紛のために衰退したが、ペタル・クレシミル(在位1059頃〜74)は海軍力を回復させ、その子ズヴォニミル(在位1075〜89)の時代に一時政権が安定したが、その死後王位を巡る争いが激化した。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
裁定を王家と姻戚関係をもつハンガリー王ラースロー1世(在位1077〜95)に依頼した。政争を解決したラースロー1世は1094年にザグレブに司教座を開設した。ラースロー1世の死後反乱が起きたが、後継者カールマーン(在位1095〜1116)が鎮圧し、1101年にはクロアチアとダルマツィアの王として戴冠された。カールマーンはクロアチア貴族の特権とクロアチアの自治を認め、クロアチア貴族の中から地方統治にあたる「バン(太守)」が任命された。
ビザンツの宗主権下にあったダルマツィアの港湾諸都市は、アドリア海と地中海を結ぶ航路の要衝として重要性を増していて、外部勢力の抗争が続いた。1180年にハンガリー王ベーラ3世(在位1172〜96)はヴェネツィア領ザダルを含むクロアチアとダルマツィアの諸都市を再び占拠し、1182年にはボスニアとセルビアも支配下においた。1202年にはヴェネツィアが第4回十字軍の力を借りてザダルを奪回した。14世紀半ばにはハンガリーおよびクロアチア王のラヨシュ1世(在位1342〜82)がヴェネツィアを破り、ダルマツィアを支配することになった。ドゥブロヴニク(ラグシウム)はヴェネツィアとハンガリー両国の宗主権下にあったが、活発な交易活動をおこない、ドゥブロヴニク共和国として繁栄した。
ビザンツの宗主権下にあったダルマツィアの港湾諸都市は、アドリア海と地中海を結ぶ航路の要衝として重要性を増していて、外部勢力の抗争が続いた。1180年にハンガリー王ベーラ3世(在位1172〜96)はヴェネツィア領ザダルを含むクロアチアとダルマツィアの諸都市を再び占拠し、1182年にはボスニアとセルビアも支配下においた。1202年にはヴェネツィアが第4回十字軍の力を借りてザダルを奪回した。14世紀半ばにはハンガリーおよびクロアチア王のラヨシュ1世(在位1342〜82)がヴェネツィアを破り、ダルマツィアを支配することになった。ドゥブロヴニク(ラグシウム)はヴェネツィアとハンガリー両国の宗主権下にあったが、活発な交易活動をおこない、ドゥブロヴニク共和国として繁栄した。