
モラヴィア
ブルガリアのボリスがフランク教会からキリスト教を受容しようと考えていた頃、大モラヴィア王国のロスティスラフ王は、東フランク王国に対抗するために、862年頃ビザンツ帝国に使者を送り、主教の派遣を依頼した。布教活動に力を入れていたビザンツ教会は、主教の派遣は見送り、スラヴ語で布教できるメソディオスとその弟キュリロスを送った。この兄弟はテッサロニキ出身の知識人で、ハザール・カガン国への使節の経験もあった。キュリロスはスラヴ語のアルファベットを考案し、聖書と典礼書の一部をスラヴ語に翻訳した。マケドニアのテッサロニキに住むスラヴ人の言葉を、字体が複雑なグラゴール文字で記したもので、スラヴ世界の共通文語として、古代教会スラヴ語または古代ブルガリア語と呼ばれることになった。
863年秋までにモラヴィアに着いた兄弟は、モラヴィア人聖職者養成と翻訳活動をおこなった。867年に教皇に招かれてローマへ向かい、新教皇ハドリアヌス2世から歓待を受けた。スラヴ語典礼が公認されたが、キュリロスは869年に客死した。メソディオスはシルミウム(セルビア西部)大司教に叙され、モラヴィアでの宣教活動を再開した。しかし870年、大モラヴィア王国での政争でロスティスラフが敗れ、親フランク派が台頭し、フランク教会が勢力を回復した。ビザンツ教会のモラヴィアでの宣教活動は失敗に終わったが、メソディオスがシルミウム大司教だったことから、クロアチアにスラヴ語典礼が普及することになった。
863年秋までにモラヴィアに着いた兄弟は、モラヴィア人聖職者養成と翻訳活動をおこなった。867年に教皇に招かれてローマへ向かい、新教皇ハドリアヌス2世から歓待を受けた。スラヴ語典礼が公認されたが、キュリロスは869年に客死した。メソディオスはシルミウム(セルビア西部)大司教に叙され、モラヴィアでの宣教活動を再開した。しかし870年、大モラヴィア王国での政争でロスティスラフが敗れ、親フランク派が台頭し、フランク教会が勢力を回復した。ビザンツ教会のモラヴィアでの宣教活動は失敗に終わったが、メソディオスがシルミウム大司教だったことから、クロアチアにスラヴ語典礼が普及することになった。