
ボゴミル派異端
ブルガリアではキリスト教を国教とした後もスラヴやブルガール古来の異教信仰が残っていた。また国境地帯にはビザンツ政府がシリアやアルメニアから強制移住させたパウロ派や単性論者のヤコブ派などの異端が住んでいた。4世紀に成立したマッサリアノイ派も修道院を中心に宣教活動をおこなっていた。
マッサリアノイ派は肉体的快楽を断ち、ひたすら祈ることで魂が救済されるとして教会の儀式を否定した。パウロ派はマニ教的二元論に基づき新約聖書のみを正典として、既存の教会制度を認めず修道制も拒否した。バルカンに移住したパウロ派は積極的に布教活動をおこない、マッサリアノイ派とともにあらたな異端ボゴミル派の成立に影響を与えたとされる。
970年代に書かれた「異端論駁の説教」のなかに「信仰に忠実な皇帝ペタルの時代にボゴミルという名の司祭がブルガリアの地にあらわれ、そこではじめて異端の教えを説くことがあった」と記されている。ボゴミルとは「神に愛されし者」を意味するギリシア語テオフィロスのスラヴ語訳。ペタルはシメオンの後継者で在位927〜970年。ボゴミル派はブルガリア人の下級聖職者によってマケドニア地方で始まったらしい。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
マッサリアノイ派は肉体的快楽を断ち、ひたすら祈ることで魂が救済されるとして教会の儀式を否定した。パウロ派はマニ教的二元論に基づき新約聖書のみを正典として、既存の教会制度を認めず修道制も拒否した。バルカンに移住したパウロ派は積極的に布教活動をおこない、マッサリアノイ派とともにあらたな異端ボゴミル派の成立に影響を与えたとされる。
970年代に書かれた「異端論駁の説教」のなかに「信仰に忠実な皇帝ペタルの時代にボゴミルという名の司祭がブルガリアの地にあらわれ、そこではじめて異端の教えを説くことがあった」と記されている。ボゴミルとは「神に愛されし者」を意味するギリシア語テオフィロスのスラヴ語訳。ペタルはシメオンの後継者で在位927〜970年。ボゴミル派はブルガリア人の下級聖職者によってマケドニア地方で始まったらしい。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
ボゴミル派は二元論に基づいて、この世をキリストの弟サタナエルが創った悪の世界ととらえ、現世の教会や国家の権威を否認した。「異端論駁の説教」には「彼ら(ボゴミル派)は自分の仲間に主人に服従させず、富者を誹謗し、皇帝を憎悪し、長官を罵倒し、貴族を非難し、皇帝に仕える者たちを堕落した者とみなし、すべての農奴にたいして主人のために働くことを禁じた」と記されている。
ボゴミル派は権力者から危険視され、多くの罰則が作られ異端として迫害されることになった。教団組織については不明な部分が多いが、教義の実践者・完全な禁欲生活を送り宣教活動をおこなう指導者「完成者」と多くの一般信徒「信仰者」・「聴講者」からなっていた。ブルガリアが衰退して、社会不安や外敵の脅威が増してくるなかで、民衆のなかにボゴミル派信者が増えていった。ビザンツ領内にも広がり、貴族の中にも信者がみられるようになった。
教会はボゴミル派を弾劾し、ブルガリア王ボリル(在位1207〜18)も、1211年に主教会議を開いてボゴミル派を異端とした。ボゴミル派は13世紀以降ビザンツ領内では少なくなったが、バルカンでは増え、イタリア・フランスの二元論的異端カタリ派にも影響を与えたとされる。領主層の支持や軍隊組織をもってはいなかったが、民衆蜂起に加わり教会や政府に反抗した。14世紀になると静寂主義(ヘシュカスモス)やそれに対抗する教えなどが広まり、オスマン支配が確立すると消滅していった。
ボゴミル派は権力者から危険視され、多くの罰則が作られ異端として迫害されることになった。教団組織については不明な部分が多いが、教義の実践者・完全な禁欲生活を送り宣教活動をおこなう指導者「完成者」と多くの一般信徒「信仰者」・「聴講者」からなっていた。ブルガリアが衰退して、社会不安や外敵の脅威が増してくるなかで、民衆のなかにボゴミル派信者が増えていった。ビザンツ領内にも広がり、貴族の中にも信者がみられるようになった。
教会はボゴミル派を弾劾し、ブルガリア王ボリル(在位1207〜18)も、1211年に主教会議を開いてボゴミル派を異端とした。ボゴミル派は13世紀以降ビザンツ領内では少なくなったが、バルカンでは増え、イタリア・フランスの二元論的異端カタリ派にも影響を与えたとされる。領主層の支持や軍隊組織をもってはいなかったが、民衆蜂起に加わり教会や政府に反抗した。14世紀になると静寂主義(ヘシュカスモス)やそれに対抗する教えなどが広まり、オスマン支配が確立すると消滅していった。