
第二次ブルガリア帝国
トドル(のちにペタル)とアセンの兄弟はブルガリアの独立運動を初め、民衆の支持と遊牧民クマン人の援軍を得て、ビザンツ軍を破り、1187年独立を達成した。タルノヴォを首都とする第二次ブルガリア帝国が成立した。民族構成はブルガリア人、ヴラフ、ギリシア人、クマン人と複雑で、ブリガリア人の民族国家ではなかった。
アセン1世、ペタル1世が暗殺された後、末弟のカロヤン(在位1197〜1207)が即位した。カロヤンはコンスタンティノープルで教育を受けていて、ビザンツ帝国をモデルとした国家を目標にしていた。彼自身「ブルガリア人とギリシア人の皇帝」と称して対外政策を進めた。ブルガリア教会独立のために、教皇インノケンティウス3世と書簡を交わし、1204年に教皇特使を迎えた。教皇特使は教会合同の意図もあって、ブルガリア総主教を首座大司教に任命し、カロヤンに王冠を授けた。この年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領して、ラテン帝国(1204〜61年)を建て、ビザンツ勢力は各地に継承国家をつくった。
1205年、勢力拡大のためにカロヤンはラテン帝国軍と戦い、皇帝ボードワン1世を捕らえて処刑した。さらに1207年、マケドニアに侵攻し大部分を占領したが、テッサロニキ包囲中に急死した。クマン人が関与した謀殺とされる。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
アセン1世、ペタル1世が暗殺された後、末弟のカロヤン(在位1197〜1207)が即位した。カロヤンはコンスタンティノープルで教育を受けていて、ビザンツ帝国をモデルとした国家を目標にしていた。彼自身「ブルガリア人とギリシア人の皇帝」と称して対外政策を進めた。ブルガリア教会独立のために、教皇インノケンティウス3世と書簡を交わし、1204年に教皇特使を迎えた。教皇特使は教会合同の意図もあって、ブルガリア総主教を首座大司教に任命し、カロヤンに王冠を授けた。この年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領して、ラテン帝国(1204〜61年)を建て、ビザンツ勢力は各地に継承国家をつくった。
1205年、勢力拡大のためにカロヤンはラテン帝国軍と戦い、皇帝ボードワン1世を捕らえて処刑した。さらに1207年、マケドニアに侵攻し大部分を占領したが、テッサロニキ包囲中に急死した。クマン人が関与した謀殺とされる。
用語集 ヨーロッパ史 バルカン史
世界各国史18 バルカン史
政争を収拾させたアセン1世の子、イヴァン・アセン2世(在位1218〜41)によって第二次ブルガリア帝国の最盛期を迎えることになった。彼は国境地帯の防衛力を強化するとともに、婚姻を通じた近隣諸国との関係でブルガリアの国際的地位向上に努めた。初めて貨幣を鋳造して経済的発展を図り、1230年には領内に侵入したテッサロニキ皇帝率いる軍を破り、テッサロニキにも影響力を強めた。この戦いを記念してタルノヴォに「聖40人殉教者」教会を建て、戦勝碑文を大理石柱に刻んだ。
イヴァン・アセン2世の死後、40年間に6人の皇帝が即位するなど、ブルガリアの支配権が弱まった。ビザンツ帝国は黒海沿岸都市を占領し、ハンガリー王国とキプチャク・カン国は北部を侵略した。国内では豚飼いイヴァイロの蜂起など、民衆蜂起が続いた。
クマン族出身の貴族ゲオルギ・テルテル(在位1280〜92)が中央権力を掌握した後、1323年にミハイル・シシュマン(在位1323〜30)が第二次ブルガリア帝国最後の王朝シシュマン朝を開いた。彼は新興勢力として台頭してきたセルビアを制圧しようとしたが、戦いに敗れ戦死した。ミハイルの甥イヴァン・アレクサンダル(在位1331〜71)は一時的に政情を安定させ、学芸の振興に努めたが、その後ブルガリアは分裂状態になって、オスマン帝国に征服されることになる。
イヴァン・アセン2世の死後、40年間に6人の皇帝が即位するなど、ブルガリアの支配権が弱まった。ビザンツ帝国は黒海沿岸都市を占領し、ハンガリー王国とキプチャク・カン国は北部を侵略した。国内では豚飼いイヴァイロの蜂起など、民衆蜂起が続いた。
クマン族出身の貴族ゲオルギ・テルテル(在位1280〜92)が中央権力を掌握した後、1323年にミハイル・シシュマン(在位1323〜30)が第二次ブルガリア帝国最後の王朝シシュマン朝を開いた。彼は新興勢力として台頭してきたセルビアを制圧しようとしたが、戦いに敗れ戦死した。ミハイルの甥イヴァン・アレクサンダル(在位1331〜71)は一時的に政情を安定させ、学芸の振興に努めたが、その後ブルガリアは分裂状態になって、オスマン帝国に征服されることになる。