
トランシルヴァニア侯国成立 シュパイツァー協約
1520年代後半、サポヤイ・ヤーノシュがスルタンに庇護を求めたことから始まった東ハンガリー王国。トランシルヴァニア侯国成立の起点は1570年のシュパイアー協約とされる。
スルタンの宗主権を認め、歳貢をおさめていたが、内政・外交では高度の自主性を保っていた。民族王のヤーノシュ・ジグモンドが1571年に死去すると、彼の顧問官だったバートリ・イシュトヴァーン(在位1571〜86)がトランシルヴァニア侯に選出された。議会代表はサース(ザクセン)人、セーケイ人、ハンガリー人の「三民族」が基本で、ハンガリー東部の大領主が加わった。農民や牧羊民に多かったルーマニア系住民やヴラフ(ロマンス語系の言葉を話し、牧羊に従事していた民族)には国政に参与する権利は認められていなかった。「三民族」が信奉するカトリック、ルター派、カルヴァン派、反三位一体派(他のヨーロッパ諸国では異端とされていた)の活動は1568年の議会で公認されていたが、ルーマニア系住民の宗教、東方正教は寛容されただけだった。
1570年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
スルタンの宗主権を認め、歳貢をおさめていたが、内政・外交では高度の自主性を保っていた。民族王のヤーノシュ・ジグモンドが1571年に死去すると、彼の顧問官だったバートリ・イシュトヴァーン(在位1571〜86)がトランシルヴァニア侯に選出された。議会代表はサース(ザクセン)人、セーケイ人、ハンガリー人の「三民族」が基本で、ハンガリー東部の大領主が加わった。農民や牧羊民に多かったルーマニア系住民やヴラフ(ロマンス語系の言葉を話し、牧羊に従事していた民族)には国政に参与する権利は認められていなかった。「三民族」が信奉するカトリック、ルター派、カルヴァン派、反三位一体派(他のヨーロッパ諸国では異端とされていた)の活動は1568年の議会で公認されていたが、ルーマニア系住民の宗教、東方正教は寛容されただけだった。
1570年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
旧ハンガリー王国領では、プロテスタント擁護を掲げるトランシルヴァニア侯の威光は絶大で、1620年代にプロテスタント勢力がほぼ一掃されたオーストリア、ボヘミアとは違い、プロテスタント勢力は17世紀後半でも対ハプスブルクの核になり得た。
プロテスタントの活発な宗教活動もみられ、出版や各地でのコレギウムの設立などの文化・教育面の動きもあった。聖書の現地語訳はモラヴィアで「クラリツェ聖書」が完成、ハンガリーではカーロイ・ガーシュパールの訳が広く読まれた。
一方、対抗宗教改革の動きもあった。ハンガリーのパーズマーニ・ペーテルはエステルゴムの大司教としてハンガリー人大貴族のカトリック復帰に尽力し、1635年にはナジソンバトに大学(ブダペシュト大学の前身)を設立した。
トランシルヴァニアで中央集権体制をつくったバートリは、1575年、選挙王制に移行していたポーランドに国王として迎えられた。ポーランドとの結びつきがオスマンに対して有利なものになることが期待されたが、ポーランドとロシアの抗争に引き込まれるばかりだった。
プロテスタントの活発な宗教活動もみられ、出版や各地でのコレギウムの設立などの文化・教育面の動きもあった。聖書の現地語訳はモラヴィアで「クラリツェ聖書」が完成、ハンガリーではカーロイ・ガーシュパールの訳が広く読まれた。
一方、対抗宗教改革の動きもあった。ハンガリーのパーズマーニ・ペーテルはエステルゴムの大司教としてハンガリー人大貴族のカトリック復帰に尽力し、1635年にはナジソンバトに大学(ブダペシュト大学の前身)を設立した。
トランシルヴァニアで中央集権体制をつくったバートリは、1575年、選挙王制に移行していたポーランドに国王として迎えられた。ポーランドとの結びつきがオスマンに対して有利なものになることが期待されたが、ポーランドとロシアの抗争に引き込まれるばかりだった。