
フィリップ急死 シャルルが継承
1506年9月、ブルゴスでフィリップが急死、ヘントで生まれたネーデルラント人、6才のシャルル(後のカール5世)が継承した。
1507年全国議会は祖父マクシミリアンを後見人に、伯母(フィリップの妹)マルグリートを摂政として認めた。1508年マルグリートはフランス王ルイ12世とカンブレで協定を結び平和の回復に努めながら、対フランスのイギリス、スペイン、サヴォワとの連携は維持した。
1514年12月、全国議会は「土着の君主」の統治を要求、1515年1月シャルルは全国議会で即位した。翌1516年1月、アラゴン王フェルナンドが死去、ファナが発狂していたためカスティリャ・アラゴン両王国がシャルル(カルロス1世)に委ねられることになった。ハプスブルク家は南イタリアと新世界に勢力を伸ばす王国を支配下に入れることになった。
1519年マクシミリアンが死去、シャルルは6月の皇帝選挙でフランス王フランソワ1世を破りドイツ皇帝カール5世となった。しかしこの「ハプスブルク帝国」はカールの家産の集合体で、一体的な国家ではなかった。対ハプスブルクでフランスを中心にまとまった諸国家との緊張関係がカールの帝国を国際政治の中で一つにまとめていた。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1500年代 1510年代
1507年全国議会は祖父マクシミリアンを後見人に、伯母(フィリップの妹)マルグリートを摂政として認めた。1508年マルグリートはフランス王ルイ12世とカンブレで協定を結び平和の回復に努めながら、対フランスのイギリス、スペイン、サヴォワとの連携は維持した。
1514年12月、全国議会は「土着の君主」の統治を要求、1515年1月シャルルは全国議会で即位した。翌1516年1月、アラゴン王フェルナンドが死去、ファナが発狂していたためカスティリャ・アラゴン両王国がシャルル(カルロス1世)に委ねられることになった。ハプスブルク家は南イタリアと新世界に勢力を伸ばす王国を支配下に入れることになった。
1519年マクシミリアンが死去、シャルルは6月の皇帝選挙でフランス王フランソワ1世を破りドイツ皇帝カール5世となった。しかしこの「ハプスブルク帝国」はカールの家産の集合体で、一体的な国家ではなかった。対ハプスブルクでフランスを中心にまとまった諸国家との緊張関係がカールの帝国を国際政治の中で一つにまとめていた。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1500年代 1510年代
低地地方はイギリス、ドイツ、フランスに囲まれていることで政治的・軍事的拠点で、アントウェルペンでの金融の発展はカールにとって戦費調達の財源となった。
1522年以降オーストリア=ハプスブルク家の所領を弟フェルディナントに委ねた後、スペイン=ハプスブルク家にとって低地地方は北部ヨーロッパでの前衛基地となった。カールは1522年以降、治世中に低地地方を訪れたのは5回だけで、統治は伯母マルグリートに委ねられたが、政治的統一への努力は続けられた。
1521年12月、カールはフランスの橋頭堡トゥールネを武力でおさえ。翌年フランドルとアルトワにあったパリ高等法院の裁判管轄を廃止した。1526年1月、マドリッド協定でカールがブルゴーニュ公国を断念するのと引換にフランソワ1世はフランドルとアルトワ、トゥールネジの宗主権を放棄、29年のカンブレ協定でそれらを最終的に承認した。
1520年代
1522年以降オーストリア=ハプスブルク家の所領を弟フェルディナントに委ねた後、スペイン=ハプスブルク家にとって低地地方は北部ヨーロッパでの前衛基地となった。カールは1522年以降、治世中に低地地方を訪れたのは5回だけで、統治は伯母マルグリートに委ねられたが、政治的統一への努力は続けられた。
1521年12月、カールはフランスの橋頭堡トゥールネを武力でおさえ。翌年フランドルとアルトワにあったパリ高等法院の裁判管轄を廃止した。1526年1月、マドリッド協定でカールがブルゴーニュ公国を断念するのと引換にフランソワ1世はフランドルとアルトワ、トゥールネジの宗主権を放棄、29年のカンブレ協定でそれらを最終的に承認した。
1520年代