
ヴェネツィア ダルマツィアの領有をめぐってオスマン帝国と戦う
15世紀後半、オスマン帝国がバルカン半島西部に達して、1463年、ヴェネツィアはダルマツィアの領有をめぐって戦った。以後1540年までオスマン帝国との敵対関係が続いた。
ヴェネツィアの海上商業が停滞するなか、オスマン帝国の保護を受けていたダルマツィアの都市国家ラグーザ(ドゥブロヴニク)と対岸のアンコーナの海上商業が発展した。教皇領の都市アンコーナは1520年代には国際商業都市となっていた。1532年にコムーネが支配していたアンコーナを軍事占領した教皇は、市民の支持を確保するために商業を保護した。アンコーナは、16世紀中頃にはヴェネツィアと並ぶ東地中海への出口となっていたが、1555年、教皇が隠れユダヤ教徒を弾圧したことで、オスマン帝国領内のユダヤ商人が取引を止め、発展が止まった。
オスマン帝国から商業特権を受けていた、ラグーザはヴェネツィアにとって、脅威となるほどの商船団をもつようになった。
ポルトガルによるインド洋での香辛料の独占は、その量が少なかったため、1530年代には東地中海経由の従来の商路が復活した。16世紀のヴェネツィア海上商業は、オスマン帝国との戦争、アンコーナ・ラグーザとの競争で、一時期を除いて低迷し、末期以降は、オスマン帝国と友好関係にある、西ヨーロッパ諸国の地中海進出のため衰退に向かった。
ヴェネツィアの海上商業が停滞するなか、オスマン帝国の保護を受けていたダルマツィアの都市国家ラグーザ(ドゥブロヴニク)と対岸のアンコーナの海上商業が発展した。教皇領の都市アンコーナは1520年代には国際商業都市となっていた。1532年にコムーネが支配していたアンコーナを軍事占領した教皇は、市民の支持を確保するために商業を保護した。アンコーナは、16世紀中頃にはヴェネツィアと並ぶ東地中海への出口となっていたが、1555年、教皇が隠れユダヤ教徒を弾圧したことで、オスマン帝国領内のユダヤ商人が取引を止め、発展が止まった。
オスマン帝国から商業特権を受けていた、ラグーザはヴェネツィアにとって、脅威となるほどの商船団をもつようになった。
ポルトガルによるインド洋での香辛料の独占は、その量が少なかったため、1530年代には東地中海経由の従来の商路が復活した。16世紀のヴェネツィア海上商業は、オスマン帝国との戦争、アンコーナ・ラグーザとの競争で、一時期を除いて低迷し、末期以降は、オスマン帝国と友好関係にある、西ヨーロッパ諸国の地中海進出のため衰退に向かった。
1634年のレヴァント商業は、オスマン帝国の関税収入から見ると、イギリスが40%、フランスが27%、ヴェネツィアが26%、オランダが7%を占めていた。ヴェネツィアの一部の商業資本は、毛織物工業や印刷出版業に移動した。
ヴェネツィアでは15世紀から本土での貴族の土地所有が始まり、16世紀に海上商業が困難になると、急速に拡大した。また都市の人口が増え、食糧不足が深刻になった。1540年には約13万人だった人口が、1562年には約17万人になっていた。バルカンの穀倉地帯がオスマン帝国に征服されたため、本土が食糧基地として重要になり、1520年代以降、小麦の価格が上昇し、土地所有が利益をもたらすようになった。土地価格が上昇し、開墾も活発になって、政府も担当機関を設置した。1570年代には本土からの小麦が、輸入を上回るようになった。
キプロス領有をめぐるオスマン帝国との戦いを契機に、1570年代から1630年代にかけて貴族の土地投資も盛んになった。ヴェネツィア貴族は商人から地主へと変わり、貴族に次ぐ「市民権所有者」が商業や工業に進出した。貴族は本土の農村に土地経営のための別邸を建て、農本主義的な思想も現れた。
1460年代
世界各国史15 イタリア史
ヴェネツィアでは15世紀から本土での貴族の土地所有が始まり、16世紀に海上商業が困難になると、急速に拡大した。また都市の人口が増え、食糧不足が深刻になった。1540年には約13万人だった人口が、1562年には約17万人になっていた。バルカンの穀倉地帯がオスマン帝国に征服されたため、本土が食糧基地として重要になり、1520年代以降、小麦の価格が上昇し、土地所有が利益をもたらすようになった。土地価格が上昇し、開墾も活発になって、政府も担当機関を設置した。1570年代には本土からの小麦が、輸入を上回るようになった。
キプロス領有をめぐるオスマン帝国との戦いを契機に、1570年代から1630年代にかけて貴族の土地投資も盛んになった。ヴェネツィア貴族は商人から地主へと変わり、貴族に次ぐ「市民権所有者」が商業や工業に進出した。貴族は本土の農村に土地経営のための別邸を建て、農本主義的な思想も現れた。
1460年代
世界各国史15 イタリア史