
フス派戦争2
1420年教皇は対フス派十字軍を宣言し、16年にわたるフス派戦争が始まった。
1421年6月、急進派のジェリフスキーによるクーデタが起き、プラハの新旧両市街が統合されて急進的な改革が行われたが、穏健派や貴族の不信をかって翌年暗殺されてしまう。地方ではターボル派と「孤児」(1424年にジシュカが死去した後のフラデツの急進派の自称)の勢力が強まり、1420〜31年まで5回の十字軍を撃退した。皇帝軍はフスの相手にもならなかったらしい。
1428〜33年に、急進派は物資調達とフスの教えを広めるために、オーストリア、スロヴァキア地方、シレジア地方、ポーランド、ドイツなどに遠征した。
フス派戦争1 1410年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は 世界史アトラス 集英社
1421年6月、急進派のジェリフスキーによるクーデタが起き、プラハの新旧両市街が統合されて急進的な改革が行われたが、穏健派や貴族の不信をかって翌年暗殺されてしまう。地方ではターボル派と「孤児」(1424年にジシュカが死去した後のフラデツの急進派の自称)の勢力が強まり、1420〜31年まで5回の十字軍を撃退した。皇帝軍はフスの相手にもならなかったらしい。
1428〜33年に、急進派は物資調達とフスの教えを広めるために、オーストリア、スロヴァキア地方、シレジア地方、ポーランド、ドイツなどに遠征した。
フス派戦争1 1410年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
地図は 世界史アトラス 集英社

1434年にバーゼル公会議が和解交渉を呼びかけ、穏健派はこれに応じた。限定的に両形色聖餐を承認するという和解の原案、バーゼル協約が作られたが、急進派はこれを拒否した。5月末のリパニの戦いで急進派のターボル派が敗れ、「孤児」は全滅、穏健派の勝利が確定した。
1436年にはボヘミア議会がバーゼル協約を承認し、ボヘミアとモラヴィアにはフス派穏健派とカトリックが共存することになった。皇帝ジギスムントはバーゼル協約を承認し、ボヘミア諸邦の諸身分の権利を確認して、ボヘミア王に選出されることになった。
16年にわたる戦争の真の勝利者は世俗貴族だった。村落の85〜90%は貴族のものになった。教会や修道院には大きな痛手となり、議会参加資格まで失った。都市は勢力を弱めていたが、議会参加資格は確保して、上級貴族、下級貴族、市民の三部会制議会がボヘミア王国に定着することになった。また、ドイツ人の多くが王国を去って、チェコ人の勢力が強まり、プラハ大司教はチェコ語による礼拝を重視した。
1436年にはボヘミア議会がバーゼル協約を承認し、ボヘミアとモラヴィアにはフス派穏健派とカトリックが共存することになった。皇帝ジギスムントはバーゼル協約を承認し、ボヘミア諸邦の諸身分の権利を確認して、ボヘミア王に選出されることになった。
16年にわたる戦争の真の勝利者は世俗貴族だった。村落の85〜90%は貴族のものになった。教会や修道院には大きな痛手となり、議会参加資格まで失った。都市は勢力を弱めていたが、議会参加資格は確保して、上級貴族、下級貴族、市民の三部会制議会がボヘミア王国に定着することになった。また、ドイツ人の多くが王国を去って、チェコ人の勢力が強まり、プラハ大司教はチェコ語による礼拝を重視した。
